お題:消えない灯り
突如、明良はカフェの店員が手渡してきたコーヒーを無造作に振り払った。盛大な音と共にコップと同じ高さに詰まった氷とアイスコーヒーが床に散乱する。
そんな想像をした。すべって来た、が正しいかもしれない。気付かないうちに溜まっていた静電気がふとしたきっかけで身体から流れ出ていくように、思いもしない想像が突然頭の中を「すべって」来る。そういう時は大抵、無意識に疲れを感じているのだと、明良は知っていた。
長閑な日差しが心地よい十四時頃。思ったより早く用事が済み、残りの時間を緩やかに過ごそうと思っていた時だった。カフェ選びに悩みすぎたからかもしれない。レジ列の先頭に立ち、ようやく注文ができると思った最中に「すべって」来た。
「──お客様、いかがなされますか?」
メニュー表に視線が縫い付けられていた。一向に注文しない私を見兼ねてか、店員が慇懃に尋ねてくる。注文は決めていたはずなのに、頭の中はそれどころではなかった。こんな調子では、イートインなんて出来そうにない。
「アールグレイティーのホットを一つ。持ち帰りで」
「かしこまりました」
順当に支払いを終えた後、すぐさま取っていた席からコートをひったくり受取カウンターの前に立った。いくら手際良く動いても「すべって」来てから頭はずっと薄ぼんやりしている。
やがて紙コップを受け取ると店員の声を背に外へ出た。
陽気な日差しの下、木枯らしが身体を吹き付ける。当然だが、今まで私の中に「すべって」来た想像が現実になったことは一度もない。それは分かっている。これからもきっとそうだ。それでも──。
いつの間にか、紙コップを持った手を片方の手がさすっていた。水面に投げられた石のように、「すべって」来た想像が不安を波立たせていく。堪らなくなって歩き出した。意味もない危険信号が私の中で繰り返し点滅していた。
12/7/2025, 9:27:37 AM