汀月透子

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〈0からの〉

 財布の中身は、もう三千円を切っていた。

 家を出て、何日になるだろう。

 きっかけは会社だった。
 営業部が飛ばした大口の失注。誰がどう見ても上が握り潰した案件だったのに、気づけば始末書に俺の名前だけが並んでいた。
 二十年かけて築いたものが、会議室で三十分で崩れ落ちた。そのまま立ち上がって、オフィスを出て以降、電話には出ていない。

 妻には何も言わなかった。言えるわけがない。
 それに──あいつはもう俺を見ていない、そう確信したのはいつからだったか。
 視線が合わない食卓、返事のない会話、背中だけが増えていく夜。証拠なんて何もない。
 でも俺にはわかった。わかってしまった。

 だから先に出た。捨てられる前に、自分から消えた。

 深夜の公園。コンビニの袋を足元に置いて、錆びたベンチに腰を下ろした。
 四十三年間の重さが、全部腰にきている気がした。

「やり直したいと思っているでしょう」

 声がした。横を見ると、黒いスーツの男がいる。気配もなかった。
 年齢が読めない、人間のような、そうでないような顔をしていた。

「……誰だ」

「神とも悪魔とも呼ばれます。どちらでも構いません」

 男は猫のように微笑んだ。嘘くさい笑顔だった。

「あなたに提案があります。
 今この瞬間から、人生をゼロからやり直せる。肉体は若返り、すべてが新しく始まる」

「……条件は」

「今までのすべての記憶を、報酬としていただきます」

 俺は黙った。

 忘れてしまいたいものなら、山ほどある。詰め腹を切らされた会議室、二十年間こびりついた上司の顔、空回りし続けた日々。全部きれいに洗い流して、どこか遠くでゼロから始められるなら──

 なのに──なぜ、躊躇する。

 娘が初めて歩いた夕方のこと。
 妻がまだよく笑っていた頃、二人で食べたラーメンの味。
 親父が逝く前夜、病院の廊下でかけてくれた言葉。
 屈辱も、後悔も、泥の中を這いずった夜でさえ──全部ひっくるめて、それが俺という人間の輪郭だった。

「……全部、なくなるのか」

「全部です。それがゼロからの出発というものでしょう」

 俺は首を横に振った。

「断る」

 男は一瞬だけ、興味深そうに目を細めた。

「人というものはなぜ記憶なぞに固執するのでしょうね、やれやれ」

 そう言って、煙のように消えた。

 虫の声だけが戻ってきた。

 俺はその言葉を、何度か頭の中で繰り返した。
 固執──そうか、俺は固執していたのか。この四十三年間に。惨めで、みっともなくて、それでも手放せないものだらけの日々に。

 だとしたら。
 妻の背中ばかり見ていた俺は、妻の顔をちゃんと見ていたか。

 いつの間にか、黒い猫がこちらを見ている。夜のとばりに浮かぶ琥珀色の瞳が光る。

 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
 画面を見ると、メッセージアプリの通知が、次々と溢れてくる。受信できていなかったらしい。三日分が、一気に届いていた。

 娘からだった。

──お父さん、どこにいるの。
──ねえ、返事して。
──お父さんのこと心配してる。早く帰ってきて。

 妻からもあった。

──あなた、何があったか話してほしい。
──私、何か気に障ることした?
──怒ってないから。ただ、顔が見たい。

 画面が、にじんだ。

 俺はしばらく、ベンチの上でそれを読み続けた。三日間、ずっと届いていたはずの言葉が、今ここに積み重なっていた。
 証拠なんてない、わかってしまった─勝手にそう思い込んでいた俺の隣で、あいつらはずっと、こちらを向いていた。

 黒猫が足元にすり寄った瞬間、電話の着信音が鳴る。妻の名前が、画面に光った。
 指は、自然に動いていた。

 ふふ、と猫が笑った気がした。

──────

こーいうテイストのお話、黒猫シリーズにしたいですねぇ。
まずはネタ帳の整理からですけどね(´・ω・`)

2/22/2026, 2:51:41 AM