汀月透子

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〈雪明かりの夜〉

 明かりもつけず、私は部屋の中から外の雪を見ていた。
 街灯に照らされた雪は、音もなく降り続き、夜を白く満たす。境目というものが、すべて曖昧になる。
 七十をとうに越えた今でも、雪明かりの夜だけは、過去と現在が同じ場所に立つ。

 就職で上京して以来、故郷には年に一度帰るかどうかの暮らしだった。
 親も縁戚も亡くなり、戻る理由もなくなった。それでも雪が降ると、思い出す人がいる。

──

 中学生の頃、町で一番の資産家に嫁いできた若い女性がいた。大人たちは皆「奥さん」と呼び、名を口にしなかった。
 愛だ恋だという言葉が届かぬほど、遠く、儚い人だった。透き通るようで、最初から長くは留まらぬ存在のように見えた。

「えらい綺麗な人だねえ」
「でも、幸せかどうかは分からんよ」
「金があっても、自由はないって話だ」

 そんな声が、冬の空気に溶けていった。

 彼女が誰かと一緒のところを見かけたことがある。
 夕暮れの川沿いだった。彼女と、資産家の家で働く男が並んで立っていた。名は知らないが、町の者なら誰でも顔を知っている男だ。
 二人は少し距離を空け、川の流れを見ていた。触れ合わぬその間合いが、かえって親密に見えた。

「この前さ、川のとこで見たんだよ」
「奥さんと、あそこの使用人?」
「なんだろうね、あの雰囲気は」

 無責任な噂はいつも、断片だけを残して広がった。

 大晦日の夜、私は二年参りに出かけた。家族と一緒に出かけたはずなのに、気づけば姿が見えない。
 橋のたもとで、ふいに雪がやんだ。月明かりに浮かび上がったのは、あの奥さんだった。
 雪のように白い顔、紅をさした唇は血のように赤い。雪雲の切れ間で三日月が冴え、その冷たい光を浴びる姿は、この世のものとは思えなかった。

 彼女は橋のたもとで、川の向こうを見ていた。
 誰かを待っている──そう思った。相手の顔は浮かばなかったが、誰なのかは分かっていた。

──再び雪が降り始め、記憶はそこで途切れている。

 年が明けて間もなく、彼女がいなくなったという噂が町を駆け巡る。

「駆け落ちだろ」
「相手は、あの使用人だってさ」
「逃げても仕方ないよ、あそこの旦那と大奥さんが厳しかったそうだし。
 実の母親が危篤でも帰してもらえなかったらしいよ」

 噂好きのおばたちが声を潜めて言うことに、祖母が独りごちる。

「雪みたいな人だったねえ。
 ああいう人は、溶けるように消えるんだよ」

 私は勝手に思った。あの人は雪女で、雪とともに去ったのだ、と。

 十ばかり上の、彼女。
 あの夜、橋のたもとで待っていた相手と一緒に幸せになれただろうか。
 幸せでなくとも、息の詰まらぬ場所へ行けただろうか。

──

 窓の外では、今も雪が降っている。
 同じように、音もなく景色の境目を消しながら。

「明かりもつけないで……何を見ているの」と妻が部屋に入ってくる。

「昔、雪明かりの中で見たんだよ」
 私は振り返り、妻にあのときの話をした。
 昔、故郷に雪女のような人がいたこと。
 雪の夜、橋のたもとで見た白い顔のこと。

 妻は黙って聞いていた。
 私が話し終えると、少しだけ口元をゆるめた。

「……雪の夜は、連れていかれやすいのよ」

 いつの間にか雪は止み、満月が出ていた。
 雪明かりが部屋の中まで滲み込み、冷たく微笑む妻の顔を白く曖昧にした。

──────

あれ、昔の美しい記憶を思い浮かべる叙情的なお話だったのに、なぜかホラー調になってる……( ;∀;)

12/26/2025, 11:40:12 PM