誰よりも
断言しておこう。私はこの地上において、誰よりも「誰よりも」を多用する人間である。
誰よりも深く考え、誰よりも鋭く洞察し、誰よりも高邁な精神を有し、誰よりも人類の未来を憂いている。これが私の自己認識であり、いかなる異議申し立ても受け付けない。受け付ける窓口が存在しない。設置する予定もない。
問題はただひとつ。誰よりもを誰よりも多く使ってきたにも関わらず、これまでの人生において「誰よりも」が事実として成立したことが、精査の結果、ただの一度もなかったという点である。
これはいったいいかなる因果か。
子供の頃の私は誰よりも足が速かった。正確に述べると、誰よりも足が速いと信じていた。運動会の五十メートル走において私は渾身の魂を両の足に込め、天賦の才を世に知らしめんと号砲とともに飛び出した。結果は六人中五位であった。六位はアスカという名の負け犬であった。アスカは途中で蝶を追いかけて失格となったため、実質的な順位については各自で判断されたい。
高校生の頃の私は誰よりも勉強ができた。これも正確に述べると、誰よりも勉強ができると信じていた。定期試験の前夜、私は机に向かい、教科書を開き、シャーペンを握り、そして翌朝、教科書の上に突っ伏した状態で母親に発見された。私の脳は勉強の準備を整えた瞬間に深い眠りを選んだのである。なんと賢明な脳であろうか。しかし賢明なのは脳だけであって、テストの結果については語るに足りない。
恋愛においても私は誰よりも情熱的であった。意中の女性に手紙を書いた。三週間推敲した。推敲に推敲を重ねた末に完成した書面は、書き出しの時候の挨拶だけで原稿用紙二枚を要する威容を誇り、本題に辿り着く前に相手は引っ越した。文は人なりとはよく言ったものである。私という人間のすべてが、あの手紙に詰まっていた。
しかし私は挫けない。
なぜなら私は誰よりも不屈の精神を持っているからである。これについてはさすがに事実だと思う。根拠はないが確信がある。根拠のない確信とは、言い換えれば信仰である。私は私という宗教の熱心な信者であり、教祖であり、唯一の氏子でもある。
友人はそんな私を見て「お前ほど自分を買いかぶっている人間を見たことがない」と言った。
私はその言葉を聞いて深く考えた。
そうか。私は誰よりも自分を買いかぶる人間でもあるのか。
ひとつ増えた。
2/16/2026, 7:50:51 PM