汀月透子

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〈揺れるキャンドル〉

 打ち合わせを終えて客先のビルを出ると、私は会社に電話を入れた。直帰する旨を伝え、スマートフォンを鞄にしまう。
 十二月の冷たい空気が頬を撫でた。

──なぜだろう。急に海が見たくなった。

 最寄り駅まで歩きながら、私は普段なら絶対に使わない路線を検索していた。都心から海辺まで直結するルート。
 躊躇なく、その列車の指定席を予約した。

 駅ビルのデパ地下へ降りる。
 色とりどりのデリが並ぶショーケースの前で、私は一人前の盛り合わせを選んだ。缶のスパークリングワインも二本。
 レジで受け取った袋を覗くと、パッケージに「Merry Christmas!」の金色のシールが貼られていた。

『クリスマスを楽しむ人だけじゃないだろうに』

 思わず苦笑する。でも、店員さんは悪くない。
 私だって、数年前まではこの時期を楽しんでいた気がする。

 ホームで待つこと十分。
 やってきた赤い色の車両に乗り込むと、思いのほか空いていた。
 窓際の席に座り、さっそく缶を開ける。プシュッという音が妙に大きく聞こえた。

 新幹線ほどの速度は出ない。
 ゆっくりと加速していく車窓の外、街の灯りがひとつ、またひとつと暮れていく景色の中に浮かび上がってくる。

 あの灯りの下には、どんな人たちがいるんだろう。

 きっと、幸せそうな家族が住んでいる。
 温かいリビングで、子どもたちがはしゃぎ、妻が夕飯の支度をしている──そんな光景が容易に思い浮かぶ。
 彼の家も、きっとそうなのだろう。

──

 上司である彼と付き合い始めたのは、もう十年近く前になる。
「妻とは会話もない」
「家に帰っても一人でいるのと変わらない」

──そんな甘い言葉を信じていたわけじゃない。
 身体だけの関係だと、最初から割り切っていたつもりだった。

 それなのに、先週聞いてしまった会話が頭から離れない。

「課長、二人目のお子さん、そろそろ産まれるんでしょう?」

 総務の女性社員が、彼に声をかけていた。
 彼は照れくさそうに笑って、「来月には」と答えていた。

──その瞬間、私の中で何かが音を立てて崩れた。

 会話もないはずの妻と、子どもを作っている。しかも二人目。
 ダメージが大きい自分にも、嫌気がさす。私はこの十年、一体何をしていたんだろう。

──

 気づけば、終点に着いていた。
 窓の外は、すっかり暗い。しかも、いつの間にか雨が降り始めている。
 駅を出ると、冷たい雨粒が顔に当たった。

 予定なんてない。ただ、海が見たかっただけ。その海も、じきに闇に飲み込まれる。

 海岸近くまで歩くと、小さなカフェが見えた。
 温かい光に誘われるように、私は店の扉を開けた。

「いらっしゃいませ」

 店員の声に軽く会釈して、窓際の席に座る。注文したホットココアを待ちながら、窓の外を眺めた。

 長い橋の向こうに浮かぶ小さな島。そこにある塔がライトアップされ始めている。
 島へと続く橋は、平日だというのに傘をさして歩くカップルがいっぱいだった。

『貴女の隣りの人は、ずっと貴女の手を握ってくれる人なの?』

 少し意地悪なことを考えてしまう。
 でも、それは彼らへの嫉妬じゃない。過去の自分への、苛立ちだ。

 後ろの席に、若いカップルが座った。水族館帰りだろうか、ショップの袋からクラゲのぬいぐるみが顔を出している。

「ごめん、こんなに天気悪くなるなんて思わなかった」

 男の子の申し訳なさそうな声。

「しょうがないよ。でもここから見るライトアップも素敵だよ」

 女の子の優しい声。

 私も島の塔を見つめた。
 煙るような霧雨の中に光る塔の先端は、風が強くなったのかキャンドルの炎が揺れているように見える。

「……雨強くなってきたけど、島まで行く?」
「また天気のいい日に来ればいいよ。
 今日はショッピングモール行かない?
 あそこなら映画館もあるし」

 謝る男の子の声に、女の子の明るい声が被さる。

「そうだね、今からなら最後の上映に間に合うかな」

 二人は楽しそうにプランを練り直している。

 ふふっ、と笑ってしまった。
 羨ましいとか、そういうんじゃない。ただ微笑ましくて、少しだけ心が温かくなった。

 ココアを飲み干して、私は店を出た。霧雨は、みぞれまじりになってきていた。

 海沿いの国道から島に向けて、テールランプが連なっている。
 駅の改札からは、これから島へ向かうカップルが大勢歩いてくる。みんな楽しそうで、幸せそうで。

 橋のたもとに佇み、島のキャンドルを仰ぎ見る。

 全ての人に祝福を。
 あの人にも、あの人の家族にも。
 メリークリスマス。

 私は帰りの特急券を買う。
 そして、スマートフォンを取り出し、転職サイトのアプリを開いた。

──別れよう。会社も、変えよう。

 揺れていた気持ちは、静かに定まっていた。
 キャンドルの灯りのように、揺れながらも、消えない光を選ぶために。

──────

江ノ島のシーキャンドル、日本三大夜景になったんですねぇ……

辛島美登里氏「サイレント・イヴ」のイメージで書いていたのに、海岸沿いだから雨のままだし。
途中からTOM☆CAT氏「LADY BLEU II」になってるし。古い曲ばかりでサーセン。

12/24/2025, 3:47:46 AM