汀月透子

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〈時を結ぶリボン〉

 夕方の電車に揺られながら、私は窓の外を眺めていた。
 結婚して子どもも生まれ、フルタイムで働いている。仕事にも家庭にも不満はないが、何かが満たされているわけでもない。
 少し自分を見失っている──そんな日々を送っている。

 次の駅で、二人の学生が乗り込んできた。見覚えのある制服だ。私の母校だった。
 紺色のリボンと、エンジ色のリボン。高等部と中等部で色が違う。あの学校のルールは今も変わっていないらしい。

「先輩、さっきのフレーズのところなんですけど」

 エンジ色のリボンの少女が、紺色のリボンの少女に声をかける。
 後輩の方は緊張しているのがありありと分かる。背筋がぴんと伸びて、言葉を選ぶように慎重に話している。

「ああ、あそこね。もう一回確認してみよう」

 先輩の方は落ち着いた様子で、バッグから楽譜を取り出した。
 部活の帰りだろう。立ったまま、楽譜を指さしながら小声で何か説明している。どう歌うか、どう解釈するか。譜面を読み解く時間だ。

 その様子に、私は自然と微笑んでいた。
 合唱部だ。きっと、合唱部だ。

 私も、かつてあの制服でを着て合唱部に所属して、同じように高等部の先輩に指導してもらっていた。
 あの学校では、高等部の部員が中等部の部員を指導するのが伝統になっている。コンクールは中高別々だけれど、年に一度の定例コンサートだけは、全員で一緒に歌う。
 そのために、先輩たちは厳しく、そして優しく、私たちを育ててくれた。

 特に思い出すのは、高校三年の卒業式の後だ。体育館の隅で、私の担当だった先輩が声をかけてくれた。

「これ、あげる」

 差し出されたのは、使い古された紺色のリボンだった。三年間、毎日身につけていたもの。
 ほつれた部分もあったけれど、丁寧にアイロンがかけられていた。

「高校三年が、中学三年に渡すの。私も、私の先輩からもらったから」

 先輩は少し照れくさそうに笑った。

「もちろん、普段使うものじゃないよ。
 でも、困ったときとか、迷ったときに見てみて。私がどんなふうに指導したか、思い出してくれたら嬉しいな。
 そして、あなたが高校三年になったら、次の子に渡してあげて」

 私はそのリボンを大切にしまって、時々取り出しては眺めた。
 厳しい音程指導。でも、うまくできたときの笑顔。発表会の前の励まし。
 すべてが、そのリボンに結びついていた。

 そして三年後、私は自分のリボンを後輩に渡した。先輩から教わったこと、自分が感じたこと、すべてを込めて。

──リボンは、世代を結ぶ象徴だった。

 次の駅に着くアナウンスが流れた。高校生の方が、後輩に軽く手を振って降りていく。
 中学生はようやく座席に座ると、バッグからメモ帳を取り出して、一生懸命何かを書き始めた。きっと、今日指導されたことを忘れないように。
 その言葉も、先輩がそのまた先輩から受け継いだものなのだろう。

 正直なところ、今の若い子たちは合理的で、こういう古い伝統なんて馬鹿にするんじゃないかと思っていた。
 でも違う。こんな形で、静かに残っていくものも、受け継がれていくものもあるのだ。

 私の駅に着いた。立ち上がってドアに向かう。
 振り返ると、あの中学生はまだメモを書き続けている。真剣な横顔。

 がんばれ、と心の中でエールを送った。

 あなたもいつか、誰かにリボンを渡す日が来る。その時には、きっと分かる。時を超えて結ばれていく、この温かさを。

 電車を降りて、夕暮れの街を歩く。
 なんだか、少しだけ心が軽くなった気がした。

──────

部活の先輩後輩なんてこんな純粋な間柄だけじゃないのはわかっていますがw
私の中でこうあってほしいというお話ですのでご容赦を。

12/21/2025, 3:13:24 AM