〈心の片隅で〉
午前中の予定を終えて帰社すると、受付を向いてる背中に見覚えがあった。
大平さんだ。
古くからの顧客で、気難しいと若手から敬遠されている人物でもある。
「向こうのフロアの担当に用があってね。戻るまで少し待たせてもらえないか」
受付の社員が困ったようにこちらに視線を向けるのを見て、俺は声をかけた。
急ぎの仕事はない。こういうとき、無理に若い社員を当てる必要もないだろう。
「こちらでよろしければ、対応しますよ」
大平さんは少し驚いたように俺を見てから、ふっと口元を緩めた。
「お、瀬尾さんか。じゃあお願いしよう」
みな忙しそうな雰囲気で、お茶を出す余裕もない。商談ブースに案内し、俺はいったん席を外した。
給湯室で片口と湯飲みに湯を入れ、茶托を用意する。急須に入れる葉の量、湯の温度、蒸らす時間。数年前に退職した女性社員──岡部さんの顔が、自然と浮かんだ。
「最初、片口に注いで少し温度を下げるんですよ。
ポットのお湯そのままだと熱すぎるので」
異動してきたばかりの頃、彼女はそう言って教えてくれた。
業務のことだけでなく、お茶の淹れ方まで丁寧に教える人だった。
その通りに急須を扱い、湯飲みに注ぐ。
ブースに持っていくと、大平さんは湯気を確かめるように覗き込み、にんまりと笑った。
「課長さん手ずからとは恐縮するな」
一口含み、うなずく。
「……そうそう。あっちのフロアだと苦いばっかなんだよ。
だから、ついこっちに来ちまう」
俺が苦笑すると、大平さんは続けた。
「岡部さんて人、いただろ。前にこのフロアにいた。
あの人の淹れたお茶は本当に美味かった」
「覚えていてくださったんですね」
「ああ。ああいうのはな、不思議と忘れないもんだ」
もともとうちの部署は事務仕事が中心ということもあって、誰か手すきの者がお茶出しする形だった。岡部さんは、新入社員にも必ずお茶の淹れ方を教えていた。
細かい手順を書いたマニュアルまで作り、いつの間にか後輩たちがパウチして給湯室の壁に貼っている。
「気配りができる人がいないと、会社ってのは回っていかないのにさ。
わからん奴は多いよな」
大平さんの言葉が、胸に刺さる。
「……耳が痛いですね」
「営業に言ってやってよ」
そう言って笑ったあと、ふと真顔になった。
「あんたも昔は、もっと尖ってたけどな。
こっちの部署に来て変わったよ」
「そんなに変わりましたか?」
「少なくとも、こんな爺いの無駄話に、忙しい若手をつき合わせないくらいにはな」
俺は返す言葉を探せず、苦笑いした。
そこへ、新入社員の藤波がおかわりのお茶を持ってくる。大平さんはそれを飲み、満足そうに頷いた。
「ほら、いい部下が育ってるじゃないか」
ほどなくして、本来の営業担当が戻り、俺は席を譲った。
給湯室に戻ると、藤波が湯飲みを洗っていた。
「さっきはありがとう。大平さん、美味いって言ってたよ」
「よかったです。家でも褒められるんですよ。
特に、ばあちゃんが喜んで」
彼は岡部さんのことを知らない。
それでも、岡部さんの残したものは、こうして受け継がれている。
「他のフロアにも、あのマニュアルがあればいいのに。男女関係なく、お茶出しできるし」
「向こうの部長は、男子はお茶出しなぞしなくていいって言うみたいですけど。お客さんにも顔覚えてもらえるし、いいと思うんだよな」
物怖じしない言い方に、俺は思わず笑った。
「じゃあ、改善提案出せよ。今なら若者の特権で何言っても許されるぞ」
「えー……同期に声かけてみようかな」
頭の固い世代は、すぐには受け入れないだろう。けれど、いずれ彼らが固定観念を打ち砕いていく。
給湯室の壁に貼られたマニュアルを見つめながら、思う。
彼女が残したマニュアルが誰かの役に立ち、若い世代に受け継がれている。
数字にも評価にも残らなかったかもしれないが、確かに誰かの心の片隅に残っている。
岡部さんは、この光景をどう見るんだろうか。
出涸らしの茶を淹れつつ、少し困ったようなあの笑顔を思い出していた。
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「moonlight」「君を照らす月」続編になりますかね。
恋愛もの……までは行かない、ビミョーな感じ。うだうだしててすみません。
「お茶くみは女の仕事」と思ってるとこ、まだあるんですよー。令和なのに。
前の職場は、部署によってものすごく温度差がありました。男子も率先してお茶淹れてくれる時は楽でしたな。
えっ今はティーサーバーですか……
12/19/2025, 9:06:55 AM