〈祈りを捧げて〉
「クリスマスだから早く上がろう」
上司がそう言って、定時きっかりにフロアを出て行った。
あっという間にオフィスから人が消えていく。デスクを立つ同僚たちの会話が耳に入る。
「じゃあ、例の店で八時ね」
「独身組は全員集合な」
誰かがこっちを見た気がしたが、目を合わせないようにモニターに視線を戻した。
静まり返ったオフィスで、キーボードを叩く音だけが響く。
待ってる家族もいない。かといって、独身同僚たちが集う飲み会に参加する気もない。
クリスマスイブに傷を舐め合うような集まりに、何の意味があるのだろう。
クリスマスは家族のため、誰かの幸せを祈れる人のイベントだ。それを毎年、思い知らされる。
楽しくなくなったのは、いつからだろう。
子供の頃は好きだった。ケーキを食べて、ご馳走を食べて。
母が作ってくれたローストチキンは少し焦げていたけれど、家族三人で食卓を囲んだ。
そして、翌朝の枕元にはプレゼント。あの頃は、父も笑っていた。
けれど、小学四年生のクリスマスイブから、何かが変わった。
両親の会話が減った。父の帰りが遅くなった。
サンタクロースが枕元にプレゼントを置かなくなったのも、その頃だ。
中学に入る頃には、父は週末しか家に帰らなくなった。
「仕事が忙しい」と言っていたが、子供心にも嘘だとわかった。
母の目が赤く腫れている朝が増えた。それでも二人は離婚しなかった。俺が成人するまで、形だけの家族を続けた。
父は生活費だけは入れてくれたけど、母はフルタイムで働いた。
「将来困らないように」と言って、休みの日も働いていた。
高校の修学旅行も、大学の入学金も、全部母が出してくれた。
そして大学入学前、奨学金の申請のために戸籍謄本を取り寄せた日。
父親の項目に、見知らぬ名前があった。認知された男の子の名前、年齢は7歳。
その瞬間、すべてが繋がった。
父が家に帰らなくなった理由。母が一人で働き続けた理由。俺たち家族が壊れた理由。
あれから父からのメッセージは、すべて既読無視している。
月に一度は来る。「元気か」「仕事はどうだ」。
今さら何を、と思う。
母が俺を愛してくれているのはわかっている。
電話をすれば優しい声で応えてくれるし、帰省すれば好物を作って待っていてくれる。
だからこそ、余計につらかった。父の愛情が、俺の知らない子供に向けられていることが。
ふいに、スマホが母からの着信を表示する。少し迷ったが、電話に出た。
「もしもし」
「あ、出た。今、忙しい?」
「いや、大丈夫」
「そう。今年も年末は一人で過ごすの?」
母の声は、いつもより少し寂しげだった。
「まあ、仕事もあるし」
素っ気ない返事をしてしまう。母は少し黙った。
「……そう。無理しないでね。ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ」
「そっか。じゃあ、体に気をつけてね」
電話が切れた。
モニターを見つめたまま、しばらく俺は動けないでいた。
母の声が、頭の中でリピートされる。寂しそうな声。気遣うような声。
──母も、一人なのだ。
俺は父を拒絶することで、母まで遠ざけていたのかもしれない。
クリスマスを一人で過ごしているのは、俺だけじゃない。母も同じだ。
それなのに俺は、自分の傷だけを抱えて、母の寂しさから目を背けていた。
──あの、認知された子供は今、どうしているのだろう。
もう高校生になっているだろう。会ったこともない。名前しか知らない。憎むべき存在のはずだった。
けれど、もしかしたらその子も、自分の存在に苦しんでいるのかもしれない。
あるいは、その子の母親。父の愛人だった女性。
両親が離婚するまでの長い間、彼女もまた傷ついていたのではないだろうか。
自分だけが被害者だと思っていた。
けれど、父が作り出した歪みの中で、誰もが苦しんでいたのかもしれない。
俺は目を閉じた。
年末は母と過ごそう。ちゃんと向き合おう。
そして、いつか──今すぐは無理だけれど、いつか──顔も知らない弟のことも、憎しみではなく、同じように傷ついた存在として受け入れられるようになれたらいい。
心の中で、静かに祈った。
母に、穏やかな日々が訪れますように。
あの知らない子供に、温かな居場所がありますように。
そして俺自身も、いつかこの怒りを手放せますように。
──来年は、もう少し違う景色が見えているだろうか。
俺はパソコンをシャットダウンして、オフィスを出た。冬の空気が冷たく頬を撫でる。
イルミネーションの光が、少しだけ温かく見えた。
──────
そういやサンタはいつから来なくなったかなぁ……年末ジャンボの当たりくじお願いしてるから大晦日に来るかなぁ(違
12/26/2025, 6:21:01 AM