文緒

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0からの


 ある夜、妻が突然言った。
 「明日から、初対面ということにしませんか」
 
 なにを馬鹿なことを……。テレビから妻へと視線を移す、いつもの顔だ。機嫌が悪そうには感じない。口角が少し下がってはいるが、年を取ればそんなものだ。
 妻は静かにこちらを見つめている。
 
 妻にしては珍しく冗談を言ってきたので、俺も。ああ、やってみようか。と適当に返事をした。なんとなく居心地の悪さを感じて、視線をテレビに戻す。
 「じゃあ、明日からお願いしますね」
 おやすみなさい。と後ろからかけられた声の後に、ドアの閉まる音がした。
 俺はこれっぽっちも内容が頭に入ってこないテレビを一時間きっちりと見てから、電源を切った。真っ暗になった画面、眉間にシワを寄せた男がそこに映っている。


 翌朝、妻が敬語で話しかけてきた。
 「お名前、伺ってもよろしいですか」
 寝起きのまだ回らない頭で、昨夜の出来事を思い出す。あの冗談はまだ続いているのかと、妻のしつこさに少々疎ましさを覚えた。

 相変わらず口角の下がった真顔だが、妻から怒りのようなものは感じない。
 朝から雰囲気を悪くして一日中引きずるのも面倒だと思い、俺はこんな冗談をはじめた妻の真意を探るべく努めて優しく尋ねることにした。
 「母さん、どうした。俺がなにかしたのなら言ってくれ」すると、妻からは意外な言葉が返ってきた。
 「昨日ね、読んでいた小説にあったの」

 妻のおかしな言動は小説が原因か、馬鹿らしい。そんなもののためにいつもの朝食が冷めていくのはもっと馬鹿らしい。じっと見つめてくる妻の横を通り、俺は自分の席について箸を持った。味噌汁の湯気が、心なしか元気が無いように見える。
 「母さん、ご飯を頼む」
 味噌汁を一口すする。火傷するようなあの熱さが無い。

 「私の名前、覚えてますか」
 
 突然かけられた妻の言葉に戸惑ってしまった。名前を忘れていたからじゃない。
 息子が産まれて、俺は妻のことを「母さん」と呼ぶようになった。それはごく自然なことだった。家族として妻の役割にピッタリな呼び方が「母さん」だったからだ。
 俺も「父さん」としての役割を懸命にやってきたつもりだし、その呼び方に疑問を感じたことなど一切無い。でも、妻の言葉にとても後ろめたい気持ちになった。

 そして気づく。
 息子の前以外では、妻は俺の名前を呼ぶこともあったが、俺は妻の名前を何十年も呼んでいない。
 息子が無事に巣立っても、いつまでも母さんは母さんだった。
 妻の方へ体を向けると、変わらず妻は私をまっすぐに見ていた。

 「ゼロからはじめてみませんか。私たち」

 妻からの提案で昔の記憶が一気によみがえる。また、あの時のように他愛も無い話ができるようになるのだろうか。
 普段、業務連絡のような会話しかしてこなかった俺にはなかなかハードルが高い。でも、乗り越えた先のことを想像すると、浮き立つような心持ちになった。
 そして――。


 意を決して、俺は久しぶりに妻の名前を口にした。思いがけず声に震えが混じってしまい、耳の先が熱くなった。

 目の前の妻は、久しぶりに笑っている。

2/22/2026, 2:57:26 PM