すゞめ

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『スノー』

 時々、夢だとわかる夢を見ることがある。

 カーテンを開いた瞬間、これが夢だと理解した。
 隣に彼女がいなくて、なおかつ、大雪に見舞われているからである。
 大粒の雪が視界を銀白の色で覆い尽くした。
 地面は既に雪に包まれており、交通機関は麻痺しているであろうことは想像に難くない。
 携帯電話がメッセージを受信して震えれば、上司からリモートワークを指示された。

 もっともらしい設定が付与された、妙にリアルな夢。

 だからこそ、彼女の姿が見えないのが気がかりだった。

 枕はふたつあるのに、彼女の温もりは捉えられない。
 ベッドボードに置いている眼鏡を手を伸ばした。
 隣には彼女が気まぐれに折った、だらしのない折り鶴が飾られている。
 あまり物を持たない彼女の小さなクローゼット、姿見、加湿器、ハムスターのぬいぐるみが置かれていた。
 どこか朧げな彼女の存在が言いようのない不安感に煽られる。
 妙な胸騒ぎにいても立ってもいられず、クローゼットからダウンコートを取り出した。

 結論から言えば、彼女はリビングでへたり込んでいた。

 安心したのもつかの間、振り返った彼女は大きな瑠璃色の瞳から大粒の涙を溢している。
 俺の前で、こんなふうに彼女が泣くことはないはずだ。
 わかっていながらも、俺は、どうしたって彼女を案じてしまう。

「だ、大丈夫ですか?」
「カマクラが作れないの」

 カマクラ?

 彼女の目の前には置いてあるはずのローテーブルはなく、なぜか溶けかけた雪の山が作られていた。
 暖房器具が容赦なく稼働している部屋のなかで、溶けるなというほうが無理がある。
 そこそこの量の雪を運んできたのか、床はびしょびしょになっていた。

 そもそも、7階のマンションでどうやって雪を運んできたのか。
 聞けば、その小さな両手いっぱいに抱えては運んでを繰り返していたとのことだ。

「そんなことしてるから溶けるんでしょう。トラックでドカッと運びましょう」
「え、免許は?」
「免許はあります」
「トラックは?」
「駐車場にあるんじゃないですか?」
「なんでっ!?」
「それはナイショです」

 どうせ俺の夢なのだ。
 トラックくらい都合よく置いてあるし、マンションまでの道幅もいい感じに通り抜けできるに違いない。

 まともに思考が回らないのは、俺の夢であるというのに彼女が泣いているせいだ。
 雪山を用意して彼女が泣き止むのであればいくらでも運んでやる。

 そう決意して玄関の扉を開けたときだ。

   *

「あ。起きた?」

 穏やかで澄んだ声が鼓膜を揺らし、まばゆい光が視界いっぱいに差し込んできた。
 この目が焼けるような強い光の存在は、俺の知る限りふたつとしてない。

「キャアアアアアアッ!?」

 彼女の最強の顔面が真正面から飛び込んできて、慌てて体を起こしてソファの端っこに逃げた。

「うるさ」

 大げさに耳を塞いだ彼女はちょこんと、開いたスペースに腰をかける。
 バクバクと暴れる心臓を押さえながら、寝込みわ襲われた幸せを噛みしめた。

「不意打ちでいきなり近づかないでください。ずるいですっ。あなたが視界に飛び込むだけで、俺の世界が闇から金色に染まるんです。強烈な光源で目が焼けて、また視力が落ちたらどうしてくれるんですかっ!?」
「また?」

 ギロリと彼女の眼光が鋭く光ったところで、俺はサッと彼女から目を逸らしてあたりを見回した。

「あれ?」

 水浸しになっていたリビングはきれいに片づけられていて、ローテーブルも置かれている。

「カマクラ、はもういいんですか?」
「カマクラ?」
「カマクラが作れないって泣いてたのはあなたでしょう?」
「全く身に覚えがないんだけど、寝ぼけてたりする?」
「寝ぼけ……?」

 彼女の腕を掴み取って、距離を縮める。
 大きく見開かれた瞳にかまうことなく近づいて、そっと唇を重ねた。
 柔らかな感触と、穏やかな温もり、艶めいた水音が夢ではないことを物語る。

「あぁ、夢でしたか」
「……どういう確認の仕方だよ」

 少し照れた彼女が、俺の胸に額をグリグリと押しつけて悪態をついた。
 ぷっくりと膨らんだ頬を指で小突く。

「あなたのほっぺたを食べるわけにもいかないでしょう?」
「……だからっ!?」

 臨戦態勢に入りかけた彼女だったが、すぐにその声は萎んだ。

「もう、なんでもいいけど……。毛布もかけないでこんなところで寝てたら風邪引いちゃうよ?」

 去年、季節の変わり目に風邪を拗らせてしまい、彼女に過度な心配をかけさせてしまった。
 以降は気をつけているが、どうしたって睡魔は俺の意思とは無関係に襲ってくる。
 ここは俺が素直に折れるところだ。

「すみません、気をつけますね」
「具合は?」
「平気ですよ」

 肩の力を抜いて安堵する彼女に、俺もホッと息をつく。
 ふと時計に目が移り、時刻が6時半を過ぎていることに気がついた。

「あ。飯、食いました? まだなら準備しますよ」
「まだだけど……。え、寝ないの?」
「二度寝はあなたを見送ったあとでもできますから」
「ありがと」

 フワッと目を細めた彼女の頭を撫でる。
 彼女には凍てついた涙よりも、雪解けの笑顔のほうがよく映えた。

12/13/2025, 9:02:08 AM