夕木

Open App

【題:0からの】

 大学で数学を専攻していると言うと、決まって同じような質問をされる。「計算、速いんでしょ?」とか、「一日中数字のこと考えてるの?」とか。

 けれど私がいちばん好きな問いは別にある。

「何の数字が好き?」というものだ。

 そのときだけは、迷わず答える、「0」と。

 『0』を――『数学』を好きになったのは、中学生のころだ。

 私の数学教師は、問題を解かせるよりも、「なぜそうなるのか」を執拗に問い続ける人だった。

 公式の丸暗記を許さず、「方程式とは何か」「係数とは何を指すのか」と、言葉の輪郭を私たちに自分の力で捉えさせようとしていた。


 初めての授業は強すぎるほど印象に残っている。

 進み方の説明をしてから、先生はまず、黒板に大きく0を書いた。

「0は、すべての始まりだと言われることが多い。でもね、歴史的には逆なんだ」


 ――人間はまず、物を交換するときのために、1や2といった数を生み出した。
自分が物を渡すだけの時のために、失ったことを表す−1や−2も考え出した。
そうして長い時間が過ぎたあとで、ようやく“何もない”という状態を表す0が、数として認識された。

 そんなことを説明したあと、一呼吸おいて、先生が口を開いた。


「ない、を、ある、として扱う。そこが面白いんだ」


 その意味を理解した瞬間、黒板の『0』は、たしかに生命を持った。
動きこそしないが、なんだか、
「わたしはちゃんと、ここにいるよ」
って、やわらかなメッセージを送っているように見えた。

 そうだ、「0」は、"記号"から、生きた"概念"となったのだ。

 同時に『数学』が、『得意な科目』から『好きな科目』へと変わった。


 だから今も、「好きな数字は?」と聞かれたら、私は少しだけ誇らしい気持ちで答える。

「0だよ」
 
 0からのメッセージは、今もたしかに私の心に届いている。

2/21/2026, 11:35:38 AM