〈遠い日のぬくもり〉
冬になると、膝の上が妙に寂しかった。
寒さが本格的になるにつれ、どうしても思い出してしまう。膝の上に乗った、あの小さな重みのことを。
長い間一緒に暮らしていた猫が亡くなって、もう二年が経つ。
それは思っていた以上に日常を変えてしまうものだった。
みーこがうちに来たのは十四年前だ。
友人が飼っていた母猫は、血統書付きのお嬢様だったらしい。その猫が一晩脱走し、戻ってきたときには身ごもっていた。生まれた三匹の子猫のうち、一番おっとりしていそうな一匹を引き取った。
もらったばかりの頃は驚くほど真っ白で私はドイツ語でミルクを意味する「ミルヒ」と名付けた。
でも、結局誰も「ミルヒ」とは呼ばず、気がつけば「みーこ」に落ち着いていた。呼びやすくて、みーこらしい名前だったと思う。
成長するにつれて、ふわふわの白い毛には薄茶色が混ざってきた。娘が「ココアパウダー振ったみたい」と笑ったのを覚えている。
母猫は真っ青な瞳だったけれど、みーこの目は緑がかった黄色で、陽の光を受けると金色に輝いた。
年を重ねるほどに、美しい猫だった。
歳のせいか、あまり食べられない日が続いたことがある。
これならいけるだろうか、と夫が少し高い刺身を買ってきた。ようやく一切れ食べたあとの残りは、私たちの夕飯になった。
思い返せば、私だけじゃなく、家族全員で甘やかしていたのだ。
最期の日、みーこは私の膝の上で静かに息を引き取った。少しずつ失われていく体温が、あまりにも切なくて、涙が止まらなかった。
──この子はうちに来て幸せだっただろうか。
そんな問いにしばらく捕らわれていた。他の猫を見ることさえ、つらかった。
娘が保護猫を迎えたらどうかと言ってきたときも、すぐには答えられなかった。
心の準備ができていなかった。みーこの代わりなんて、いるはずがないと思っていた。
それなのに。
夫が連れて帰ってきた子猫は、そんな感傷をあっさり吹き飛ばした。
拾ってきた、と聞いたときには言葉を失ったけれど、段ボールから顔を出したその小さな塊を見た瞬間、生活は一気に子猫中心になった。
焼き菓子みたいな色だから「クーヘン」と名付けたけれど、結局みんな「クーちゃん」と呼ぶ。
来てまだ二ヵ月なのに、もう何年も前からここにいたみたいな顔をしている。
かわいい。間違いなくかわいい。でも、比べちゃいけないとわかっていても、やっぱり違う、と心のどこかで思ってしまう。
ある午後、リビングのソファでうたた寝をしていた。
夢を見ていた。みーこの夢だ。
若い頃のみーこが、私の隣で丸くなって寝ている。白い毛にココアパウダーを振ったような茶色が混ざった、あの懐かしい姿。
私は夢の中で、みーこの頭を優しく撫でた。
「なぁん」
甘えたように鳴いて、みーこが私の顔を見上げる。ツンとすました顔、金色の瞳。
涙が溢れて止まらなかった。会いたかった、こんなに会いたかったのに。
みーこは私の頬をぺろりと舐めた。
ざりっ。
その感触で、私は目を覚ました。
クーちゃんが私の顔を舐めていた。若草色の瞳で、じっと私を見ている。
「あら、ごめんね。ご飯の時間よね」
私はまだ半分夢の中にいるような気持ちで、ぼんやりと言った。
「ちょっと待っててね、みーこ」
その瞬間、クーちゃんが「なぁん」と返事をした。みーこが甘える時の、あの鳴き方。
え?
私は思わず聞き返すように、クーちゃんを見つめた。
──今、「しまった!」って顔をしなかった?
耳が一瞬ぴくっと動いて、目を逸らしたような……。
「お母さん、クーちゃんのこと、みーこって呼んだ?」
娘が台所から顔を出した。
「あ、ごめん。寝ぼけてて……」
隠れるように足元にまとわりつくクーちゃんを撫でながら、娘は笑う。
「昔、みーことテレビ見てた時、お母さん茶色の猫をかわいいって言ってたじゃない。
それ覚えていて、みーこが毛皮を着替えてこの家に来たんだよ、きっと」
娘は冗談めかして言うけれど、その言葉が妙に心に残った。
そんな夢みたいな話、馬鹿馬鹿しい。
でも、ホントならそれも嬉しい。
クーちゃんを抱き上げて、その小さな体を胸に抱きしめる。あったかい。みーこの温かさとはまた違う、でも確かにぬくもりがある。
みーこがいなくなった寂しさは、きっと消えない。
でも、この子がくれるぬくもりが、新しい記憶を作っていく。
遠い日のぬくもりを胸に抱きながら、今、私の腕の中にある新しいぬくもりを感じる。
クーちゃんが小さくあくびをして、私の腕の中で丸くなった。
窓の外では、冬の陽射しが優しく降り注いでいた。
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飼ってた猫が天に召された後、毛皮を着替えてまたやってくるというお話。
第三者からするとファンタジーなんですけど、私は大好きです。
12/25/2025, 4:13:50 AM