たかなめんたい

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『同情』

「同情」という言葉には、どこか危うさが見え隠れするように感じる。

その危うさの正体は、文字通り「同じ感情」と書くにもかかわらず、実際には相手と同じ感情には到底なり得ないという矛盾にあるのではないだろうか。

誰かが苦しんでいる姿を見て、私が「かわいそうに」と心を痛めたとする。しかしよく考えてみれば、「かわいそう」という感情は、いつだって他者に向けるものだ。自分自身に対して「かわいそう」という感情を向けることは少なく、渦中にいる本人はただ必死にその状況と向き合っているのが常だと思う。
だからこそ、相手自身が自分のことを「かわいそう」だと思っていないのは、ごく自然なことなのだろう。そこに生じているのは「同じ感情」ではなく、決定的な感情のズレなのかもしれない。

相手を思いやっているつもりでも、一方的な「かわいそう」という眼差しは、時に残酷な響きを持つことがある。それは、相手の在り方をこちらの勝手な感情で枠に嵌め、消費してしまう危険性を孕んでいるからだ。

真に誰かと思いを交わすということは、表面的な同情とは少し違うのだろう。相手の感情を自分と同じだと錯覚するのではなく、その人が「なぜ」その状況に至り、「なぜ」そのような思いを抱いているのかという背景に目を向けること。

安易に「気持ちはわかるよ」と同調するのではなく、相手の感情と自分の感情は違うという事実を引き受けた上で、それでも相手の「なぜ」に静かに寄り添おうとする姿勢を持つこと。それこそが、独りよがりではない、相手をひとりの人間として尊重する関わり方に繋がっていくのではないかと思う。

すぐに解決策を提示したり、憐れんだりするのではなく、ただそこにある理由と共に留まること。私自身も、安易な同情で相手を縛ることなく、その奥にあるものに寄り添える人でありたい。

2/20/2026, 5:26:20 PM