あなたがすき

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夜は息をひそめ、冷たさだけが確かなものとして世界を縫いとめていた。頭上には、沈黙とともに果てしなく広がる夜空があった。星々は凍てついた大地の上に投げられた針のように細く震え、そのかすかな光だけが、闇が完全ではないことを証していた。

「それで君には、この手が見えているのか?」

男は、夜の影から抜け出したばかりの亡霊のような面差しをしていた。血の気のない顔に反して、声だけがひどく深く、焦げた薪の匂いを思わせる温度を含んでいた。少女はその声を聞くたび、胸のどこかが静かに軋むように思えた。

「見えてるわ」少女は言った。しかし、その言葉は夜気に触れた途端に薄れていくようだった。

男は短く息を吸い、少女が空ばかり見つめ、自分を見ようとしないことに気づくと、「そうは思えない」と疲れたように呟いた。その声音には、誰かを責める力すら残っていなかった。

風が一度、重い布を押し広げるように二人の間を通り過ぎた。静寂は重く積もり、星々のかすかな震えや、二人の鼓動のゆっくりとした反響さえ、永遠の始まりのように感じられた。

「見えている分だけで十分よ」少女は静かに言った。「それに天国は、それほど遠くはないの」
男は眉をひそめる。
「ええ。空を照らしているのは星でも月でもないの。夜そのものが空を覆い、暗く輝くからこそ、あんなにも眩いのよ。あれは、天国へ通じる窓。」

男はしばらく黙ったのち、言葉を探すように「美しい」とだけ呟いた。しかしその声は、言葉の美しさと裏腹に、どこか深い疲労を抱えていた。

少女はわずかに笑った。男は笑わない。彼は空から目をそらし、少女の手を両手で包むように握りしめた。その姿は、冷たい世界に取り残された誰かが、細い炎を守ろうとしているようだった。

彼の全身は光を拒む黒に覆われ、その黒は、世の苦悩が幾層にも沈殿した色のように重かった。だが瞳だけは別だった。深い夜の底からすくい上げられた水のように澄み、こちら側と向こう側の境界を曖昧にする奇妙な輝きがそこにはあった。まるでその奥に、ひっそりと、傷ついた宇宙が息を潜めているかのようだった。

「本当に、見えているのか?」
男の声は、もはや祈りにも似ていた。

「ええ。ずっと」少女は答えた。

夜空の向こうを見たのか男は問うた。
その答えを少女が持っていると信じていた。

少女はゆっくりと男の瞳を見つめ返す。その視線には、悲しみとも慈しみともつかない、静かな隔たりが宿っていた。

「……嘘よ」

天国の場所など知らない。
夜空の向こうに何があるのかも知らない。
星がどれほど美しいかも、夜というものがどれほど人を包むのかも、わからなかった。
ただ、男の瞳の奥に、少女は自分の知らない夜空を見た。
もし頭上の美しい夜空を越えて辿り着く場所があるのだとしたら、きっとそれはあの瞳の奥に隠された、名もなき宇宙なのだろう。

夜空を超えて

12/11/2025, 11:17:46 AM