起きたら部屋中肉の匂いだった。
狭いこたつの上が、まさに肉で埋まっている。野菜も魚も、うどんや白飯もない。見事に肉だけ。以上。
「おそよう」
皮肉たっぷりに里香が言った。ごっくんと肉をのみ込んで。
「全然起きないんだね。あたしが泥棒だったら今頃死んでたよ」
泥棒は物を盗めればそれでいいのであって、寝ている者をわざわざ殺す必要がどこにあるのかと思ったが、面倒でやめた。
「どうしたの? この肉」
一応訊いてみる。
「もらってきた。あいつん家から」
予想通りの答えだった。
「それこそ泥棒したんだろ?」
「存在ごと消しちゃえばわかんないよ」
あんたも食べな、と里香は箸でつまんだ肉をひらひら振る。
朝から立派な霜降りだった。
『霜降る朝』
目の前でドアが閉まった。大きな揺れに身体を取られないよう踏ん張ると、先ほどまで座っていた場所にリュックの男性が座るのが見えた。ずり落ちそうになるストラップを慌てて捕まえる。
二駅前までは記憶があった。気づいた時には知らない駅で、発車アナウンスが流れていた。車内は乗った時より混雑している。大きなターミナルを過ぎたのだろうか。
諦めてドアにもたれる。ついでに床に鞄を置いた。聞いたこともない駅名と乗り換え先が丁寧に二度と繰り返された。
列車が再び停まり、開いたドアからホームに降りる。どこかで折り返さなくては仕方ない。幸い、向かい側が反対方向行きだった。島式ホームと呼ぶのだったか。
人波を見送って歩き出したところで、鶏皮の焦げる匂いがした。見下ろした広場に屋台が出ている。途端に盛大に腹が鳴った。
「心の深呼吸、ねえ」
リラックスできる呼吸法、なんて記事を見かけて早速昼休みに試していたら、先輩に言われた言葉だ。そっちのほうが、足りてないんじゃないの?
「よし」
鞄を肩に掛け直してホームを通り過ぎ、改札へと俺は歩き出した。
『心の深呼吸』
ジャージで過ごした翌日にワンピースを着てくるひとだった。不誠実を見過ごせず、朗らかによく笑う。そんなところが好きだと思った。
あの日前屈みに教卓にもたれた脇から、無防備に白がのぞくのを、周りの男子たちがニヤニヤ見ていた。当時流行った歌の文句に似ている、淡い水色に白の縦縞が入ったワンピースだった。袖から少しはみ出た糸が、隠しきれない幼さに見えた。
目の前で手が振られる。待ち合わせに現れたきみの、空を切り取ったようなワンピース。
「どしたの?」
見上げられ、私は笑う。
「かわいいから見惚れちゃって」
真実の一部分をクローズアップして言葉にすると、目の前のきみは「よしよし」と満足げに頷いた。
『時を繋ぐ糸』
視界の隅に、はらはらと黄色が落ちる。目を上げるのを待ち構えたように、何十枚というイチョウの葉が目の前に降る。地面がざあっと波立った。
毎日歩いている通勤ルートだった。つい昨日まで黄色率はほぼなかったはずだ。自分が気づいていなかっただけだろうか。
一足踏み出すたびに足元がカサコソと鳴る。すれ違う小学生がスニーカーの先で落ち葉を蹴り散らかす。街路樹は残らず紅葉したわけではなく、緑の葉ばかりの樹もあった。日当たりの違いだろうか。緑も黄も青空に映えて、葉先を風にそよがせている。
メッセージアプリを既読で止めたままスマホを閉じ、しばし鮮やかな色彩を見ていた。
『落ち葉の道』
機嫌の良い時、まんざらでもない時、君は二回髪をかきあげる。犬の尻尾みたいだなあと毛先を眺めて私は思う。
遅刻するよと眠そうに呟く頬を撫でて、実は今日休み取れたと伝えたら、ギッと音がしそうなほど瞳が見開かれた。
「マジで!?」
「マジで」
「無理してない?」
「……してない」
「ほんと?」
下から覗き込まれ、返事が遅れる。嫌味をよこした部長のあばた面がよぎる。
「こういうのは、無理って言わないもん」
嬉しくないの? と目を見て訊いたら、
「さあ、どうかな〜」
面倒くさそうに目を逸らして、指先が二回、右の髪をかきあげた。
大事なものは何なのか、知らせる鍵を君はすぐ隠すけど。不意に開けてくれるのもまた、君だけなんだ。
『君が隠した鍵』