「ようこそお越しくださいました。」
気が付いたら、見知らぬ屋敷の門に立っていた。正確な時刻は分からないが、空の暗さを見るに深夜帯であろう。前方から聞こえた声にぼんやりとそちらを見やれば、執事のような服装の恐らく男が佇んでいる。恐らくと言うのは、声や服装、口調や背格好から推測した結果だからだ。彼の顔は黒い羊のような、山羊のような動物の頭部を象っている。人の体に不気味な動物の頭がくっついているのだ。
「お屋敷の中に入られますか。」
そう言う彼の手には、火の宿っていない、空っぽのランタンが下げられていた。
「屋敷の中は暗いですから。危ないですよ、こちらをどうぞ。」
「いや……あの……火、点いてない……」
「危ないですよ、こちらをどうぞ。」
出来の悪いRPGのNPCのように、同じことを繰り返す。意味の分からないことを何度も聞かされて辟易し、そしてこれ以上この不気味な男と関わりたくなくて、さっさと空のランタンを受け取って門をくぐる。古びた外見と点かない灯りの割に、丁寧に手入れがされた屋敷だった。
入ってみると、外見から一変、中はひたすらに奥まで続く長い長い廊下があるだけだった。廊下だというのが入り口から差す僅かな光で分かるだけで、他に何かあるのかもしれないが。
他にできることも無いので手探りに廊下を進んでいく。視覚を奪われているのと本当に何も無いのとで、永遠にも感じられるほど長かった。壁伝いに歩いていくうちに、いくつか分かった。どうやら、ここは画廊か何からしい。壁に触れる右手に、定期的に額縁のような何かが触れる。
ひたすら進んでいると、それなりに強く頭をぶつけで蹲った。どうやら最奥に着いたらしい。せめて何かあってくれ、と願いながら壁を探ると、何か出っ張ったものが指先に当たった。感触からすると金属製の箱のようなもの、中央にはさらに謎の丸い出っ張り。直感的に、ボタンだと思った。普段なら警戒して絶対に押したりしないのに、俺はなぜかその時、深く考えずボタンを押した。
途端、空っぽだったランタンにぼんやりと光が灯る。どういう仕組みかは分からないが、一先ず光源を入手した俺は安堵感に包まれながら、それ以上見るものも無いので来た道を戻ることにした。
カツカツと硬質な足音が響く。画廊だと思っていたこの廊下に飾られていたのは、絵ではなく鏡だったらしい。思考にノイズが混じっていく。鏡に映る自分の顔には、赤黒い液体が点々とこびり付いていた。
そうだ、殺したんだった。
ふわふわとして夢見心地だった足取りが、急に現実に引き戻される。幾重にも反射する鏡の中の自分が、責めるような目つきで俺を見る。
少しずつ、記憶が戻っていく。動機、手段、凶器、場所、時間。そして、相手の顔。記憶が一つずつ戻る度、ランタンの火は赤みを増していく。
出口のドアに着く頃には、手元のランタンはあの日の部屋の中のような鮮烈な赤を灯していた。頭は警鐘を鳴らして止めようとするのに、体は操り人形にでもなったかのように勝手に扉を開く。
「おかえり。」
目の前に、あの羊頭の男が立っている。顔を上げたくなかったのに、顎を掬われて目を合わせられてしまった。
「痛かったよ。すごくね。痛かった。痛かったんだ。」
目の前にいるのは、羊の頭をした悪魔なんかじゃない。あの日俺が殺した、彼。
がばりと身を起こして、冷や汗で湿った布団を握り締める。あれは夢だ。俺のせいじゃない。そう、事故。不運な事故、だったんだ。
夢の中の彼の目が網膜に焼き付いて離れない。夢だ夢だと譫言のように繰り返す俺の背後には、空になって煤けたランタンが一つ、転がっていた。
テーマ:記憶のランタン
凍てつくような白い息を吐き出しながら、ひたすらに北へ進んでいく。かつての彼の姿を追うように、残影に縋るように、ひたすら。
人形と見紛い、いっそ不気味なほど整った容貌。他の誰より高い身長に、靭やかで細身だがしっかりと引き締まった筋肉質な体躯。かつての友であろうと敵になったら容赦しない冷徹さに白銀の髪にアイスブルーの瞳も相まって、軍学校時代、彼の渾名は人呼んで「冬将軍」だった。
その名を冠するだけあって、彼は冷たい人間だった。他人に興味など無く、関心を向けるのは自国の勝利と栄光のみ。多くの者が街へ出かけるような、軍学校の数少ない休日さえも訓練に明け暮れるような人だ。冬将軍の名は伊達ではない。
そんな彼と俺が出会ったのは、彼の名によく似合う冬の日だった。俺は人と話すことが好きだったし、軍学校に入ったのだって体を動かすのが好きで、たまたまそれが優れていたからだ。彼のような大層な理由も、大義も無い。南方の出自であった俺は、持ち前の多弁に黄金色の髪、褐色の肌、そして橙色の瞳。俺は、彼と対を成すように「太陽」と呼ばれた。何もかもが対局的で、実力による2人ペアの実戦訓練で彼と組むことになった時は本当に嫌で嫌で仕方なかった。
けれど、話すうちに彼が冬将軍なんかじゃなく、普通の、俺と同じように生きる人間なのだと分かっていった。北国の将軍家で生まれたらしい彼は、母親の作る芋のスープが好きらしい。いつの間にか俺達は惹かれ合い、高め合い、やがては月と太陽に例えられるほど強い、最高のバディににった。
なのに。皮肉にも彼は、真夏の日差しの中で散っていった。冷酷な冬将軍だった彼は、いつか俺に似ていると言った太陽の真下で死んだ。あれだけ冷たかった彼は、俺と交流するうちにその氷を溶かしていったらしい。同期の仲間を庇って死んだと、出撃直前の俺に伝えられた。
そこからは、よく覚えていない。気が付けば玉座の間で英雄として勲章を与えられ、冬将軍の友として名誉の二階級昇進を遂げた軍服を代わりに受け取った。
太陽だった俺はその日、間違いなく死んだ。あの剣技への燃え上がるような情熱も、彼を溶かした温もりも、きっと今の俺にはもう無い。
動かなくなっていく手足を見下ろして、その場に座り込む。かつての彼を、冬将軍を追いかけて北へ逃げ続けた俺は、かつての彼と同じような顔をしているのだろう。
ひたすらに、ただひたすらに冬へ進み続ける。どんな剣技も、どんな勲章も、彼が居なければ価値がない。
彼が守った自国は真夏。冬将軍は、もういない。
テーマ:冬へ
「ねぇ、君こないだからずっとそこいるよね?」
突然、大通りの方から来た綺麗な身なりの子供が声をかけてきた。年は俺と同じくらい、身分はきっと天地の差。大方、ずっとこの薄汚くてじめじめした路地裏に、死んだように転がっている俺に好奇心が湧いたとかそんなんだろう。こういうのは大抵、無視していればすぐに飽きて元の場所へ、光の下へ戻っていく。
「ねぇってば。聞いてる?おーい。」
目の前でブンブン手を振られたり、あるいは跳ね回られたりするが、全て無視する。挙動があまりに幼くて、本当に俺と同い年くらいなのか自信がなくなってきた。食べ物やらの違いで発育が違うのかもしれない。本当はずっと年下なのか?
「もー……無視しないでよ。」
急に手に温もりが伝わってきて、俺は無視を突き通せなくなった。路地裏で生活しているような孤児は、風呂にも入れない上ゴミを漁って生きているのがほとんどだ。そんな臭くて汚いような存在に、好んで触れたがる者なんて見たことがなかった。
顔を上げると、目を焼くほどの、眩く瞬く白い光の下で屈託なく笑う男がいた。
「あ、やっと目ぇ合った!」
何が楽しいのか、ケラケラ笑いながらさらに距離を詰めてくる。路地裏では嗅いだことのないような、清潔で清廉な石鹸の匂いがした。
「君、ずっとここにいるの?」
諦めて小さく頷くと、彼は少しだけ目を見開いてまた笑った。
「こんなとこで過ごしてたら病気なっちゃうよ。……ね、僕んちおいでよ。ね?」
いつか見た子犬のように、こてりと首を傾げて言う彼の顔は純粋そのものだった。汚れも、身分も、見た目さえ厭わない。もしも神か、あるいは天使がいるのなら、それはきっと彼の形をしている。そう思うほどの純粋だった。
俺達には縁のない、高い高層建築に切り取られた長方形の夜空の下。路地裏の空気は相変わらず澱んで、死んだ仲間の死臭と鼠の駆ける音に支配されている。しかし、そこに彼がいる。全てを照らし出しているのに、なぜかその全てを綺麗に見せてしまうような純白の月光を背負って、そこに立っている。
月の光に縁取られた彼の姿を腐った網膜に焼き付けながら、俺は初めて、煌びやかで絢爛で、暗所に慣れ堕落した目には眩しすぎるほどの光を讃えた街を見た。
テーマ:君を照らす月
「ね、ね、知ってる?」
「何を?」
戦闘糧食のカビ臭いようなペーストのパウチを咥えながら、グダグダと駄弁っている。ここ最近は忙しくて、浴びた化け物の血も多い。体中がベタベタするし、生臭いような匂いは不快感を刺激して止まないので早い所風呂に入りたい。そんな思いも若干乗せつつ返事をする。
「なんかさ、人類がここに引っ越す前の星あんじゃん?」
「あね。なんだっけ、地球?天の川銀河太陽系の第三惑星っしょ?」
「そーそー、それ。」
彼はパウチを早々に吸い尽くしたらしく、ゴミをそこらに放り捨ててクラッカーの封を開けている。軍に入る前ならポイ捨てを注意したかもしれないが、軍に所属した今、もう俺にはそんな気力は無い。どうせどこもかしこもゴミ捨て場と変わらない、廃れた文明の掃き溜めだ。
「地球ってさぁ、『昼』があったんだって。」
「なんそれ。」
聞き慣れない単語に首を傾げる。俺は彼よりは頭がいいと自負してはいるが、そこまで賢いわけでもない。当然だが、学校なんて金のかかる所、通ったこともない。
「恒星の太陽が、地上を照らす時間があったんだって。今俺らが使ってる時間もその頃の名残りらしいよ。ちょうど半日くらいが『昼』だったんだって。」
ここでは想像もできない話だ。人類が地球を捨ててから、もう気が遠くなるほどの時が経っている。恒星の恩恵を知る人類はもういない。ここにあるのは、各コロニーに設置された、小さな機械仕掛けの疑似太陽だけだ。化け物共の生み出す闇に呑まれたこの星では、電気が無ければ明かりなんて得られない。
「……ちょっと気になるな。」
「でしょー?」
ペーストを吸い終わった俺は、彼と同じようにそこらにゴミを投げ捨てて立ち上がる。クラッカーは昨日彼とした賭けに負けて全て没収されたので今日は抜きだ。
「……ん、出動だって。第5-F地区で水母型だとよ。」
「げ、アレめっちゃ体液多いじゃん……あ゙ー!早くお風呂〜……」
「本部戻るまでお預けだ。」
恨めしさを孕んだ彼の呻き声が響く中、2人並んでダラダラと歩いていく。俺達が立った後には、かつての栄光を、恒星の温もりを忘れられない人類が造った、疑似太陽と化け物共を撃ち殺すための迎撃塔の群れが織り成す、乾いた木漏れ日の跡だけが残っていた。
テーマ:木漏れ日の跡
「じゃあ、また明日な。」
「……うん。また明日。」
今日もそう言って、三叉路を二手に別れて歩く。彼が視界から消えたら、カーブミラーを覗き込んでギリギリまで見送って。彼の姿が完全に追えなくなってから、家に帰る。もう何年も続けているルーティンだった。
中学生のとき、彼は一度、自らの手でこの世を去ろうとした。虐めがあったわけでも、家庭環境が悪かったわけでもない。ただ、彼は少しだけ人よりも繊細で、自分のことが分からなくて、夜空に浸したように不透明な未来が怖くなってしまったんだと思っている。勿論俺の勝手な妄想だから、合っているかは分からないが。
その日から、俺のこのルーティンは始まった。また彼がいなくなろうとしたら、本当に俺の元から消えてしまったらと考えると、どうしようもなく不安になる。だからこうして、毎日毎日小さな約束で彼をこの世に縛り付ける。彼はなんだかんだ言って優しいし、俺に甘い。俺との約束を彼が破れる訳が無いという絶対的な信頼と、過大なまでの自信を持っていた。
今日のように、単純に明日も会う約束の時が多いが、ずっとそれではいつか破られそうで不安になる。だから、たまに買い物に行こうだとか、家に行っていいかだとか、そういう少しだけ大きい約束もする。
こんなささやかな約束すら破れない彼だから、あの日ふっと彼の中の何かが溢れてしまったんだろう。人から鈍いとよく言われる俺では、その溢れそうな何かを減らすことも、一緒にそれを背負うこともできない。
下らない、どうでもいい、ささやかな願いを込めた小さな約束が、俺の限界だった。この細くて頼りない糸でしか、彼をこの世に縛ることはできない。
こんなことを考えていたら、また不安が頭を支配しそうになってきた。回らなくなってきた頭で携帯を取り出して、そのまま何も考えず彼に電話を掛ける。コール音が増えていく度、不安はかさを増していく。
『……もしもし?どうしたの?』
いつも通り優しい彼の声がして、俺はようやく息を吐けた。何でもないと誤魔化して、少しだけ明日の話をして電話を切る。
膨らんできた希死念慮を彼との約束で押し込めながら、自嘲気味な笑みが零れてきた。
あの約束でこの世に縛っているのは、本当は彼の存在ではない。俺が俺自身を殺さないために、俺ごと彼をこの依存の沼に縫い付けているに過ぎない。
2人でだめになっていく感覚に怯えながらも、俺はどうしようもない安堵感に絡め取られていた。
テーマ:ささやかな約束