暗い水底のような双眸だ。月の光も届かない、闇と静寂で満たされた深海が、奥に在る。のぞきこんでみても、その真っ黒い水面におれの姿は映らない。
ふいに彼女は目を細めた。青白い細面に浮かぶ微笑に温度はない。まるで笑う少女を象った、精巧な人形を見ているかのようだった。ぞっとするほど美しい。
喜助さん、と女がささやいた。血の気のない生白い顔の中に、唇の朱だけが鮮やかだ。呼びかけに応えるように、震える指先で、頬にそっと触れた。ひどくつめたい。おれはいよいよ恐ろしくなった。
この娘の正体はきっと、人ではないなにかだ。すべてを呑み込む夜の海のような、おぞましいなにかだ。
彼女に魅入られて、おれは仕事も妻子も、なにもかもを捨てた。世間の目から逃れるように、辺境の古屋に移り住んだ。この女をひと目見たときから、おれは狂ってしまったのだ。
己の内に渦巻く狂気は、彼女への愛憎は、どうしたって消し去ることはできない。逃れようとすればするほど、泥濘に足を取られ、深く深く沈んでいく。
女郎蜘蛛という妖怪は、人を滝壺に引きずり込むのだという。いつか耳にした伝承を、糸のように細い黒髪に触れながら、ぼんやりと思い出した。
【テーマ:海の底】
「来ちゃった♡」
突如として、その男は襲来した。真顔で「お帰りください」と即答すれば「こっくりさんじゃないんだから」とよくわからないツッコミが返ってくる。
「なんですか」
「どうしても君に会いたくて」
「…………」
「調子はどうだい後輩くん」
「見てわかりませんか」
片手で前髪をよけて、額に貼った冷えピタを見せつける。
「ご覧の通り、今あんたにかまってる余裕ないので帰ってください」
「えーケイくん冷たぁい」
病人相手に気色の悪い小芝居を続ける男を前に、ただでさえひどかった悪寒と頭痛が、いっそう悪化した気がする。俺は舌打ちして「まじでだるいから帰れ」と言い放った。
我ながら先輩に対する態度ではないと思うが、こいつに至っては例外である。俺より年上のくせをして、常識も品位も、ついでに万年金もない男相手に、いったい何をへりくだることがあろうか。
「なんだよ、心配して来てやったのに」
「あんたのせいで悪化してます」
「そりゃ大変だ。看病してやるから家上げて」
「だから……」
か、え、れ、と言おうとしたところで、くらりと頭が揺れた。あ、やべ、と思った瞬間、がしりと肩を掴まれる。崩れそうになった足をなんとか踏みしめた。
「あぶね。大丈夫?」
今さら心配そうに顔をのぞき込んでくる。だから大丈夫じゃねぇつってんだろさっきから、と怒鳴りたくなるが、そんな気力も残っていない。
先パイは俺の肩に腕を回して「部屋まで歩ける?」と聞いてくる。上がっていいなんて言ってねえぞと言いたいところだが、もはや支えなしでは歩けない。本格的に熱が上がってきたようだ。
結局、先パイの肩を借りながら、部屋まで戻ってきた。ベッドにぐったりと倒れ込む。
「スポドリ飲めそう?」
小さくうなずくと、先パイはペットボトルのキャップを開けて、俺に差し出した。身を起こして、それを受け取る。冷たく甘い液体が、喉を滑りおちていく。内にこもるような、いやな感じの体の火照りが、いくらかマシになったような気がした。
続けざまに「おかゆ食べれる?」と聞かれたので、ふたたびうなずいた。
「たまごと梅、どっちがいい」
「たまご」
「わかった。寝て待ってろ」
先パイはビニール袋をガサガサいわせながら、台所に向かった。覚束ない意識のなかで、シンクに水が流れる音や、たまごを割ってとく音を聞いていたら、どうしてか子どものころの記憶が脳裏をよぎった。
両親は、普段からあまり家にいなかった。だから風邪をひいても、あれこれと世話を焼いてくれる人なんていなかった。ただ、ひとりきりで部屋の片隅にうずくまり、浅い咳をするばかりだった。ひどくさみしかったことを覚えている。
なぜ今になって、そんなことを思い出すのだろう。いつになくおせっかいな先パイのせいで、調子が狂っているに違いない。
ほのかに漂う出汁の匂いを感じながら、ゆっくりと目をまたたいた。ふいに胸の内に浮かんだ、あのときの心細さが、ゆるやかに遠のいていく心地がした。
【テーマ(?):君に会いたくて】
リュックの内ポケットに、黒い手帳が入っていた。何だろうと思って開いてみると、どうやら日記のようだ。すこし角ばった字で、日付と天気、その下に文章が数行、書き記されている。
あいつ、日記なんてつけてたのか。あのだらしなくていい加減な男が、毎日欠かさず。よく続いたもんだと感心する。
読んでみると、帰り道に猫がいたとか、コンビニの新作スイーツがうまかったとか、それから、俺の寝顔がアホみたいだったとか。書いてあるのはそんな、とりとめのないことばかりだった。
おい、誰がアホだ。ああ、たしかにあの映画は面白かった。そういえば、そんなこともあったな。心の中で相槌を打ちながら、ページをめくっていく。
日記は、一週間前の日付で途切れている。
夕飯のシチューがうまかった。世界一うまいって言ったら、大げさだろって笑われた。本気で言ったんだけどな。また食べたい。そんなことが書いてあった。
世界一ってことはないだろう。三ツ星シェフが作ったシチューのほうが、何倍もうまいに決まってる。それでもあいつはきっと、俺が作ったやつがいいって、そう言うんだろう。
シチューなんて、いくらでも作ってやる。それから近所の野良猫を撫でて、新作のスイーツが出たらふたつぶん買ってきて、映画を見よう。寝顔がアホだとか、そんな軽口だっていいから。
もういちど聞きたい。おまえの声を。濡れたら滲んで消えてしまう、文字なんかじゃなくて。
ただ、いつもどおりのただいまに、いつもどおりのおかえりを返してやりたいのに。今日も、玄関の扉は開かない。
【テーマ:閉ざされた日記】
吹きつける木枯らしに身震いした。
隣になんとなく目をやると、男は缶を傾けて、底をしきりに叩いている。底に残ったコーンがなかなか出てこないらしい。
このもどかしさに耐えられないから、どんなに寒い日でも、俺は缶のコーンスープを買わない。けれどもこいつは「そのもどかしさがスパイスになってさらに美味くなるんだよ」とかよくわからないことを言って、むしろ自販機のコーンスープを好んで買う。
いつだったか、この男は「コーラは瓶のほうが美味く感じるのと同じで、コーンスープも缶で飲むほうが美味い」とも言っていた。至極どうでもいいと思ったので、ふーん、と気のない返事をしたことを覚えている。
バス早く来ねえかなと思いながら、コーンスープと格闘する姿をぼんやり眺めていると、友人は突然むせた。どうやら、コーンが変なところに入ったようだ。激しく咳き込みだしたので、おお大丈夫かと背中をさすってやる。
友人はひと通り咳き込んでから、息をついた。とりあえず落ち着いたらしい。俺が渡したペットボトルの水を飲み、男は掠れた声で「コーンスープに殺されかけた」と言った。
「コーンのせいでコンジョウの別れになるところだったな」
「…………」
ひときわ強い木枯らしが吹いた。
【テーマ:木枯らし】
つくづく美しいひとである。
教室の窓のすき間から流れ込んだ風に、つややかな黒がさらさら靡く。細い前髪の隙間からのぞく目もとは、甚く涼しげだ。長い睫毛が、透き通るほど色白い頬の上に、微かな影を落としている。
伏せられていた視線が、ふいに持ち上がった。ついドキリとして、息を呑む。冴えた月を閉じ込めたような双眸が、ファインダー越しに僕を射抜いた。
「撮れた?」
そう問いかけられて、数秒間固まっていた僕は、はっと我に返った。
「う、うん。すごくいいのが撮れた」
「そっか。よかった」
「ありがとう、瀬川くん」
僕は慌てて頭を下げた。瀬川くんは薄く笑って「どういたしまして」と言った。あ、今の顔も撮りたい、と思ったけれど、さんざん撮影会につき合ってもらった手前、これ以上お願いするのも忍びない。
「あ、そ、そうだ。これ」
僕は机に置いていた鞄の中から、購買で買ったお菓子を取り出して、瀬川くんに差し出した。
「撮らせてもらったお礼です。よかったら」
「…………」
瀬川くんは、僕の差し出したコアラのマーチの箱をまじまじと見つめている。何も言わずにただ見ているから、だんだん不安になってきた。
もしかして、コアラのマーチ嫌いだったかな。どうしよう。特に親しいわけでもないくせに、突然被写体になってほしいだなんて頼んだあげく、お菓子のチョイスを間違える。僕はなんて失礼なやつだろう。
泣きそうになっていたら、瀬川くんはふいに「よくわかったね」と言った。
「えっ?」
「俺の一番好きなお菓子、コアラのマーチなんだ」
「え、そ、そうなんだ……」
「うん」
瀬川くんは嬉しそうに笑った。さっきの微笑みとは違う、無邪気な笑い方。こんな顔もできるんだ、と思った。
「食べる前に絵柄を予想するのが趣味なんだ。的中したことは一度もないけど」
「そ、そうなんだ」
そんな趣味があったんだ。大人びたイメージを持っていたから、なんだか意外だ。
ともあれ、お菓子選びは失敗していなかったようで、心底ほっとした。
「ありがとう。家に帰って食べるね」
瀬川くんは、僕からコアラのマーチを受け取って、大事そうに胸に抱えた。
「文化祭、楽しみだね。写真部の展示見に行くよ」
「うん、ありがとう。瀬川くんは何部なんだっけ?」
「園芸部だよ」
瀬川くん、園芸部なんだ。たしかに瀬川くんは植物が似合いそうだ。瀬川くんと花。写真に撮ったら、きっとすごく綺麗だろう。
「文化祭は育てた花の展示をするんだ」
「そうなんだ。見に行くね」
「うん、ぜひ。ポチも喜ぶよ」
「ポチ?」
「あ、俺が育ててるチューリップの名前」
チューリップの名前、ポチなんだ。
それにしても、コアラのマーチが好きだったり、花に名前をつけたり、瀬川くんってなんだか、かわいいひとだ。
写真を撮らせてくださいと声をかけなかったら、きっと知らないままだった。ただ遠巻きに、その美しい横顔を眺めているだけだった。
勇気を出して、よかった。さっき撮った写真が宝物のように思えて、手の中のカメラをそっと撫でた。
【テーマ:美しい】