濁った液をろ過しようとしたのに、注射器の先からは何も出てこない。押しても引いても一滴も出てこない。引いて出てこないのは、当たり前だけれど。
きっと、フィルターが詰まっているのだ。
私は注射器を逆さに向けて、液がこぼれないようにフィルターを交換した。そして、また注射器のヘッドをギュッと押した。けれど、やはり何にも出てこない。液がフィルターに染み込んで、ただ液量が少なくなるだけ。
こりゃ、駄目だ。
濁ったままで、どうにかしようとする根性がいけない。まずは、この荒んだ気持ちと濁った液をクリアにしないと。と、ぐうとお腹が鳴った。
「とりあえず、おいしいごはんでも食べようかな……」
食堂の日替わり定食は何だろうと考えながら、白衣を椅子に引っ掛けた。ちょっと、視界が明るくなった気がした。
8月31日、午後5時。
少し早いけど、もうこれで終わりにしよう。
私はキッチンに立って、包丁を取り出した。
「これで、もう解放される……」
思い切り包丁を振り下ろした。
まな板の上で、ニンジンが真っ二つに割れた。
しまった、浮かれて皮を剥くのを忘れていた。私はいそいそと、引き出しからピンク色のピーラーを出した。
「お母さん、今日のごはん何?」
次男がエプロンの裾を引っ張りながら、ジタバタしている。
「今日は豚こまのカレーよ」
「やったあ、カレーだ!」
彼は両手を上げて、テレビの前のソファに戻っていった。
この夏休みの頻出単語は、「ごはん何?」。
子供たちに野菜を摂らせようと大量に買ったキュウリは、瞬殺で消えた。
食費高騰に怯えて、自転車でスーパーを回って備蓄米を探した。
それもこれもみんな、振り返れば懐かしい思い出の日々。
全国のお母さん、おつかれさま。
A happy new term.
背中で聞こえる兄弟喧嘩のBGMすら、愛おしい。
さあ、明日から給食が始まるよ。
テレビ画面には、四人のおじさんが映っている。ステージの下から青い光に照らされているが、顔のシワは隠せなかった。
お母さんはリビングのソファに座り込んで、顎に手を添えながら、真剣な表情でおじさんたちを見つめている。
ボーカルは、細身の体にやや中年の丸みが乗ったシルエット。マイクの前で軽く息を吸うと、かすれた高い声が鳴り響く。顔の表情は真剣そのもので、汗が額をつたっている。
お母さんは、リモコンをまるでマイクのように握って、一緒に歌い出した。ボーカルと同様に、サビで目をつぶって歌に集中している。
☆
「カッコ良かった?」
歌唱が終わってもまだ、お母さんは胸に手を当てて、「ふー」と深い息を吐いている。
「カッコ良かった。最高……」
「……でも、ボーカル声出てなかったし、前より太って老けたよね?」
お母さんはパッと目を開け、背筋を伸ばして私の方を向いた。
「お母さんはね、昔の心の中の風景と、今の演奏を二画面で見てたの。だから、いいの」
「二画面?」
「一緒に歳をとったってこと。同じ時空を生きてくれてありがとう……」
お母さんは、顔の前で拝むように手を合わせた。中学生の私には、まだピンと来ない。
けれど、数十年先も、同じ人を同じように好きでいられる。それだけは、ちょっとした希望のような気もした。
目がかゆくて、鼻水が出る。
線路の両脇、陽光を浴びて夏草は密やかに茂っていた。風に吹かれるたび、ざわざわと波打つ草の列は、まるで海のようだった。自転車を漕いでも漕いでも、海は途切れない。
ここから花粉がやってきたのか。
暑いのにマスクしないとな……。
「というわけで、アレルギー検査をしようと思うんですよ」
そう言った私に、先輩は訝しげな顔をした。
「風邪じゃなくて、アレルギー?」
「はい。目がかゆいので、間違いないです」
「そっかあ……それたぶん、ブタクサだよ」
「えっ?」
ブタクサ。その葉はぎざぎざに尖ったアイツ。でも、ブタクサは秋の植物じゃないか。
「ブタクサには早いんじゃないですか?」
首を傾げる私を見た先輩は、ふっと笑って、カレンダーを指さした。
「8月29日。暑いけど、ブタクサは暑さ関係なくやって来るのよ。秋の暦が近づくとね」
秋の訪れはブタクサが教えてくれる。
全然、風流じゃない。けれど、鋭敏に。
「くさっ!」
「何だ、この酸っぱい臭いは?」
夏休みの美術室。私服のみんなは鼻を押さえて立ち上がり、バタバタと出て行った。私は筆を持ったまま、冷や汗が止まらない。
いや、正確には足汗だ。このままでは、臭いの元凶が私だとバレてしまう。何とか誤魔化さなければ。と、窓で、はためく雑巾が目に入った。濡れ衣を被せるなら、アイツしかいない。筆を置いて雑巾のもとに駆け寄る。
「は……半乾きの雑巾の臭いかもしれないっ。私、洗ってくるね!」
振り向くと、美術室には山﨑くんしか残っていなかった。でも、雑巾に罪をなすりつけるには、十分な証拠ができたはず。私はサンダルをパタパタと鳴らして、美術室を後にした。
☆
「なぜ、こんなに臭いんだ……」
校舎裏のグラウンドの水道の蛇口をひねると、水が勢いよく出てくる。雑巾を横に置き、冷たい水に足を浸すと、つんと鼻を刺す臭いがさらに広がる。
見上げれば、グラウンドの太陽は容赦なく照りつけていて、洗ったばかりの足をすぐに乾かしそうだ。これで美術室に戻れると雑巾に手をかけたとき、山﨑くんが廊下を歩いてくるのが見えた。
「高橋さん、大丈夫?」
「だっ、大丈夫。もう臭くないから」
「そう、足きれいになったんだね?」
「うん……って、えっ?」
山﨑くんは私の足元をじっと見ている。まるで、探偵が手かがりを見つけたように、右手で顎をさすりながら。
「油っこいお菓子でも食べて、太るの気にして、長い距離を歩いたとか?」
確かに。
昨日はプールで遊んだ後に、インスタントラーメンを食べた。しかも、二個。で、カロリーを帳消しにしようと思って、今日は学校まで一駅歩いた。
「なぜ、それを……」
「俺も同じことして、足臭くなったから。しかも、緊張で汗が酸性寄りになると、余計臭いんだって」
「いや……サンダルだったし……素足のままで臭くなる?」
「なるんだな。意外と」
また鼻がツンとした気がした。けれど、感傷に浸っている場合ではない。
「山﨑くん、お願い。誰にも言わないで」
「言わないよ。香ばしい記憶を共有したかっただけ」
山﨑くんが爽やかに笑う。私は素足、半笑いで突っ立ったまま。
臭いは排水口に流れたけど、記憶は流れない。もう二度と不摂生はしないと、深く心に刻み込んだ。