そして、いつの間にか彼女は家を出ていった。
シンクに溜まる皿、畳まれず残る洗濯物。掃除機くらいかけようかと重い腰を上げてもそれは充電切れで、電源コードを探すのも億劫になりやめてしまう。
カーペットの上にごろりと転がり床に落ちていた髪を拾う。
髪の毛ってこんなに落ちてるのかと少し驚き、それを意識しないでいれた生活を思って目を閉じる。
大事にしないと、と思う気持ちは月日と共に薄れていた。
彼女が目の前で出ていったとしてもきっと俺は追いかけない。
急いで飛び出して抱きしめて謝る、みたいな芝居をうつ元気もなかった。だから黙って行ってしまったんだろうな。
不意にガチャとドアが開き、寝転びながら目をやるとそこには部屋に入らずに佇んでいる彼女が居た。
芝居は彼女の方からうつようになっていた。
ゆっくりと起き上がり両手を広げる。
涙を滲ませながら駆けてくる彼女の手にはアンティークのフォークが握られていた。
食べてるものをひと口くれるとか、なんならそのひと口目をくれるとか、エアコンの温度を変える時に一声かけてくれるとか、そういう小さなことに気付く度これが愛なんだなと思う。好きとかではなくて愛情の方。私はどうして大事にできないんだろうな。
屋上に居て下を眺めても誰も助けてくれる訳ではないことをどうして気付かなかったのだろう。足をかけてもなお人の気配すらしないこの屋上に何を期待しているのだろう。そういう場所を選んだのは私なのに、心の底では助けて欲しいと思っているのか。
私の人生はドラマではなく漫画でもない。私の人生の主人公は私だけど、放映されても誰の心も掴まない。怖くないわけでも引き返したくないわけでもない。ただ、帰るのにはもう一度柵を登らなければいけないから、こんな山奥から帰るにはタクシーをつかまえないといけないから、帰ったところで部屋には誰もいないから、それを考えると面倒だなと思ってしまう。死にたいと思って来たんだしな、と思いながら死ぬ理由をひとつ増やす。ああ、じゃあもういいか。怖いな。でも帰るのもこれからの生活も考えたくない。疲れたな。ほんとに疲れた。
「今までありがとう」と小さく呟いた彼女はスマホを前に投げそれを追うかのように足を踏み出した。
退院おめでとうございます。
今日は私がずっと関わってきた人が退院した日で、
私はなにが出来るのか沢山考えて関わって関わって、
それでも不十分なまま退院させてしまった。
悔しいなと思います。
同時に恐ろしくもある。私の力で人がどうにかなってしまうと思うとこれからがずっと不安です。
消えない焔というテーマですが、日々いつか消えてしまう命に向き合うのが私の仕事です。医者ではないけれどそばにずっといる仕事。
どうか少しでも長く消えることがないように、出来るだけ幸せでいて欲しいなと思います。
貴方と関わった半年が私の入職してからの半年です。
私が新人なのを貴方は最初から知っていました。
きっと不安で、嫌だと思うこともあったでしょう。
お昼ご飯にお寿司は食べれましたか。
貴方の半年を共に過ごせて良かったです。
もう病院という場で会わないことを祈っています。
明日からもお互い頑張って生きましょう。
蝶の羽をもいだら、その体躯を見て蝶だとわかる人はいるのだろうか。仮にあの羽をもがれてなお死ねないのであれば、蝶にとって屈辱的なのだろうか。羽がないと蝶なのか蛾なのかも分からない。そんなことを思いながら標本を作っている。
幼い頃、蝶を捕まえようと必死に網を振った。ひらひらと飛び回る蝶より、葉に止まっている蝶の方が捕まえるのに緊張する。葉で休む蝶が飛びたとうと羽を揺らす瞬間をじっと狙っていた。その瞬間がついに来たとき、先走る興奮から網に入るか、入らないかの所で勢いよく振り下ろした。網を見に行くと、不幸にも枠に潰れた蝶の足がぴくりと動くのが目に入った。
以来、生きている蝶は少し苦手だ。そんなことを思いながら綺麗な羽を壊さぬようゆっくりとピンをさした。