Red,Green,Blue
①【色の終わり、空白の始まり】
この家を出るわ、と私は言った。
もう終わりにしたいの。
頬を膨らませ、怒りに足を踏み鳴らして小さな女の子が喚く。
「あたしを置いていくなんて許さない!」
ごめんね。あなたは連れて行けないの。
私は小さな女の子を赤い部屋に閉じ込めた。
穏やかな微笑みを浮かべて静かな男が優しく問う。
「この家の外には、あなたを微笑ませてくれるものがあるのですか?」
そんなの家の外にも中にもあったためしがない。
私は静かで優しい男を緑の部屋に閉じ込めた。
母によく似た女が縋り付いて引き止める。
「行かないで、行かないで、行かないで」
もうあなたの思い通りにはならない。
私は母によく似た女を青い部屋に閉じ込めた。
三つの部屋の扉を閉ざしたとき、家は音もなく崩れた。壁も床も天井もすべての色が溶け合って消え去り、残ったのは目が痛むほどの白だけになった。
②【Red Girlの涙】
緑色の髪の毛が素敵な男の子。
初めて会った時から、はにかんだ笑顔が私を虜にした。
彼は生まれつき色が分からない。モノクロの世界に生きている。
でも色の違いは色の違いは濃淡で分かるんだ、と彼は言った。
モノクロの彼の世界はそんな風に色が溢れている。
一番濃い色は赤なんだって。
だから私は赤に染まった。服も靴もバッグも全部赤。髪の毛も赤くしてマニキュアもリップも赤。赤いピアスに赤いコンタクト。
彼が見ている世界で、私を見つけてほしい。彼の目に真っ先に飛び込むのは私であるように。
だけど彼が選んだのは、青いジャケットを颯爽と着こなすあの子だった。
緑の髪の毛と青いジャケットはこれ以上ないくらい似合ってる。並んで歩く姿はとてもステキだった。
全身赤に包んだ私を見た人は皆笑った。
「滑稽だね」「全然似合ってないよ」
私は恥ずかしさのあまり俯き、悲しみの中で涙を流す。涙は青い色をしていて私の赤と混じり合った。
気がつけば、赤と青は混じり合って紫になった。
毒の色?ううん、これは私だけの新しい紫。この紫を一人でも大丈夫の色にするんだ。
仲間になれなくて
闇夜の森へとあたしは一人、踏み出した。
背後であの子の哀しげな遠吠えが聞こえる。ごめん、一緒には行けないの。今回ばかりは来ちゃだめ。優しいあの子は連れて行けない。
一人で進むしかない。森の奥深くに棲むあいつらに会うためだから。
毛むくじゃらの巨体、耳まで裂けた口、くさい息、黒くて長い爪が伸びた手足、瞼のない黄緑の目は闇の中にギョロリと光る。頭に角を生やした奴、全身鱗だらけの奴。どんな奴もみんな醜い。醜いのは見た目だけじゃなくて心もだ。命なんか虫ケラみたいに思ってる凶悪な奴ら。森の奥にはそんな奴らが棲んでいる。
あたしの顔は森の木の枝に引っ掻かれて傷だらけ、足も泥でぐちゃぐちゃ。
それでもあたしは奴らを探して森の奥を彷徨う。あいつらの仲間になるために。
散々歩き回って、あたしは叫んだ。
「ねえ! あたしをあんたたちの仲間にしてよ!」
木の影から大きな影が揺れてニヤついた顔が現れる。ニターっと広がった口から牙が飛び出し涎がダラダラと落ちる。ちっとも怖くない。
あたしは言った。
「あんた達化け物なんでしょ。あたしを化け物の仲間にしてよ」
化け物たちは大笑い──俺たちの仲間になりたいんだってよ!
一匹の化け物が足を投げ出して言った。
「仲間になりたいなら、この足舐めな」
汚い足。硬い指毛がびっしり、黒い爪は尖って刃物みたい。匂いも酷い。だけどあたしは必死で舐めた。這いつくばってぺろぺろと。きっと娼婦ってこんな感じだ。舌が痛くて気持ち悪かったけど、あたしは娼婦になった気分で上目遣いで舐めてやった。
化け物はあたしを見下ろして鼻で笑った。
「本当に舐めやがった!」
別の化け物が言った。
「なあ、なんで俺たちの仲間になりたいんだ?人間のくせに」
それは……とあたしは口を拭って、化け物たちをまっすぐ見ながら言った。
「あたしは、化け物になって人間たちに酷いことをしたいの」
へえ、と化け物はせせら笑った。
「人間どもに、どんな酷いことをしたいか言ってみな」
あたしは目を閉じて思い浮かべる。あたしをこの森へ向かわせた奴ら。親、先生、教室の子。あたしの周り全員だ。あたしを苦しめてあたしを無視してあたしから全部奪ってった奴ら。あいつらにはどんな酷いことをしても足りない。あいつらと同じ人間なんかでいたくない。
「腹を切り割いて生きたまま内臓を引き摺り出してやる。顔の皮膚を全部削いで口に詰めてやる。歯を折って目をくり抜いて髪の毛を燃やす。逃げられないよう足をハンマーで粉々にしてやる。生き埋めにして恐怖を与えて、永遠に忘れられない苦しみを味合わせるの。もう二度と生きたいって思えなくなるほどの苦しみを」
あたしが一気に言うと、化け物たちはまたもやお腹を抱えて大笑い。
「笑わせんな!」
「その程度かよ?」
「つまらんつまらん。やっぱ人間ってクソだわ。聞くだけ無駄だった」
化け物たちに笑われて、あたしは顔をぐちゃぐちゃにしながら言った。
「どうやったらあんた達の仲間になれるの?」
化け物は大きな目玉をギョロリと回しながら言った。
「人間のまま惨めったらしく生きてる方がお似合いだぜお嬢ちゃん」
「あたしがもっと醜くなって酷いことが出来るようになったら、あたしを仲間にしてくれる?」
「イヤだね。人間ってだけでお断りだ。ここまで来た勇気に免じて食わないでやるからさっさと帰んな。今のままで十分醜いぜ、お嬢ちゃん。クソみたいに惨めだけどな」
化け物たちは長い爪であたしをつまみ上げた。
あたしを森の外に放り投げた後、化け物達は闇に紛れていなくなった。
やっぱりあたしは誰の仲間にもなれないんだ。
やっぱりあたしはどこまでも独りなんだ。
あたしは地面に突っ伏して声を上げて泣いた。死んじゃいたかったのに涙は全然止まらなかった。
ふと気がつけば、あたしの背中に温もりがある。クンクン、という小さな鳴き声。置いてきたはずのあの子。唯一あたしを傷つけないでいてくれる優しい飼い犬。千切れんばかりに尻尾を振って鼻先をあたしの背中に擦り付けてる。
「ばか。化け物に見つかったらどうすんの」
止まらない涙を、温かい舌が一生懸命舐めとっていく。あたしは、ただ一匹の優しい小さな生き物をぎゅっと抱きしめる。トクトク、と少し早い鼓動があたしを包んでくれて胸の奥がじんわりと熱くなる。
その時微かに、笑い声が響いたような気がした。あいつらだ。化け物たちのあざ笑う声──ほらな、やっぱりお前は俺たちの仲間になんかなれないだろ。命の温もりに縋るなんて吐き気がする。俺たちには全く理解できないね。
化け物たちの声は頭の奥でこだまする。
──その犬を殺して食ったら、お前を仲間にしてやってもいいぜ。そんなちゃちな温もり、さっさと潰しちゃいな。
あたしは胸の中の小さな温もりを強く抱きしめて、ただただ震えていた。
雨と君
朝、雨の音で僕は目を覚ました。空いっぱいに広がった灰色の雨雲が太陽を隠している。朝のはずなのに夜の続きみたいに薄暗い。朝のようなそうじゃないような。少し前の僕だったら、この曖昧さを好んでいた。
だけど今は違う。取り残されているような不安を、灰色の空に重なるようになった。年齢的なものかもしれないし、安定しない社会のせいかもしれない。僕の人生は不確かでこの先も曖昧で朧げなまま、ただ日々が過ぎていく。雨だからこんな風に気鬱になっているんだろうか。ならばこんな日は、雨を理由に、ベッドに潜り込んでいたい。
それなのに、容赦してくれない君がいる。
ベッドの端で、僕をまっすぐに見つめているのは分かってるんだ。
頼むからそんな風に見ないでほしい。僕は君のその目にどうしても逆らえないんだよ。
とうとう根負けした僕はベッドを出た。
着替えてレインコートを羽織った僕に、君は跳ね上がって喜び、待ちきれないとばかりに、リードを咥えて来て僕に差し出す。
──分かったよ、君が行きたいなら。
外に出ると、雨はますます強まっていた。灰色の雲はさらに空を重たくして、朝とは思えない暗さで、まるで時間が逆行してしまったかのよう。薄暗い、雨音に包まれた灰色の街。出歩いているのは僕らくらいだった。
──ほらな、僕ら以外誰も歩いてない。
なんだか心許ない。僕らだけ別の世界にポツンと迷い込んでしまったみたいだ。
だけど、君は軽やかに水たまりを飛び越えた。雨も泥も跳ね上げては遊ぶ。時々振り返って僕を見る君のその仕草に、僕もつい笑ってしまって。
水たまりを跳ね飛ばして遊ぶ君を、雨に濡れながら眺めた。帰ったらずぶ濡れの君を毛をタオルで拭いて綺麗にして、僕はあたたかいコーヒーを淹れよう。遊び疲れた君は僕の膝の上で丸くなって眠る。そして僕は、君のつやつやの毛並みを撫でて、君の温かな体温と寝息に、とてつもない幸せを感じるんだ。
でもこうして雨の中、水たまりで跳ねて遊ぶ君を見ているのも悪くない。君はすごく素敵だ、何もかも自由だ。世界が灰色でも君がいれば僕はいつだって、いい気分になるんだ。
誰もいない教室
放課後の夕暮れ時、誰もいない教室に幽霊が出る。幽霊に見つかったら一生取り憑かれるんだって。
という噂を確かめるために、僕とリョウジは下校せず、ひそかに家庭科準備室に隠れていた。
リョウジが、肝試ししようぜ、と言ったとき、クラスのほとんどはその誘いに乗らなかった。習いごとがあるから、とか適当な理由をつけて断っていた。
僕も塾があるから嫌だったけど、リョウジに押し切られてしまった。塾なんか体調悪いんで休みますって言っとけよ。そう凄まれて、ほぼ強制参加。
静まり返った校舎は、やっぱり独特の不気味さがあった。
家庭科準備室の大きな戸棚の影、リョウジとピッタリとくっつきあって僕らは隠れていた。リョウジの息遣いと少し汗ばんだ肌。リョウジはいつも少し体温が高かった。
「ねえ、やっぱり帰ろうよ……」
「お前までビビってんじゃねえぞ。今更やめられるかって」
「リョウジは家に帰らなくて大丈夫? お母さん、心配しない?」
「うるせえ、黙れチビ」
リョウジはぶっきらぼうに言うと、僕をどついた。リョウジが不機嫌になった理由は、なんとなく察していた。リョウジのお母さんはシングルマザーで夜に働いている人だっていう噂。でも正直、そんなのどうでもいい、幽霊も。僕は塾に行かなかったことが親にバレたらどうしよう、そればかり気になっていた。
突然、ガラリとドアが開く音がして、僕らは咄嗟に息を殺した。
家庭科準備室に入ってきたのは、僕ら4年の担任の平崎先生と6年担任の柴野先生だった。
明日ここ使うから、とか、準備手伝うんで、なんていう話声。
先生達がいなくなるまで、僕らは微動だにせず、じっとしていた。先生達は僕らに気づいてない様子で話していた。
先生同士で喋っているのを聞くのは、なんだか新鮮だった。僕らと話す時とは違って、先生っぽくない。平崎先生も柴野先生も同じような年代だからか、砕けた口調だった。僕らが隠れていることも知らず、先生たちは気軽な感じで会話を続けていた。
「平崎先生、どう? 今のクラス」
「あーまあまあっすよ」
「あの子どうよ?」
「……ああ、山下リョウジですか?」
「そうそう、山下。あいつ問題起こしてない?」
「今のところ大きな問題はないっすね、でも嫌われてます、クラスのみんなに」
「あーやっぱそうか、2年の時俺も受け持ったけど、その時も嫌われてたわ、山下」
「でしょうね。わかりますよ、嫌われるの。我が強すぎっていうか、幼いですよね。4年生にもなればもう少し社会性身につけるはずなんだけど、親がアレだから仕方ないところもありますけど」
「平崎先生気をつけろよ」
「え、何がですか?」
「山下の親、色目使ってくるから」
「マジっすかーやば。キッツイですね」
「だろ? 親も息子も痛々しいよな」
「親子で誰にも相手にされないのに気づいてないのか。なんか……哀れですよね。」
「だな、哀れだわ」
先生達の会話は、大体こんな感じだった。やれやれしょうがないよなって、仕事の愚痴を言い合うみたいな軽い感じで。
僕もリョウジも声を殺したままだった。リョウジはずっと俯いていたけど、先生の言ってることは全て理解していたと思う。
そして先生達の言ってることは、全部本当のことだった。
リョウジは嫌われ者。クラスのほぼ全員が彼を嫌っていた。女子なんか結構露骨に嫌っていたとは思う。でもリョウジは気づいていなかった。
授業中に大声で喋って平崎先生の邪魔をして相手にしてもらって喜んでる。山下リョウジはうざい奴。それがクラスメイトの共通認識だ。嫌われてることにも気づかない鈍臭い奴。
露骨ないじめがあれば、リョウジも自分がクラスのどの位置にいたか気づいたのかもしれない。でもそんな明からさまな事をするわけもない。
クラスメイトがしたのは、無視でもない、リョウジの事を軽く扱うことだった。いてもいなくても、どうでもいい奴。リョウジが何を言っても、あーそうだね、とか、うんうん、で流す。何も分からない幼稚園児を相手にするような感じ。
僕くらいだった、リョウジの言うことを聞くのは。まあそれもほぼ無理矢理ではあったけど。もっと言えば、僕はリョウジにあてがわれた人質みたいなものだった。僕がいなかったらリョウジだって、誰も相手にされていないこの状況に気づいたのかもしれない。
先生たちが部屋を出て行った後もまだ、リョウジは俯いていた。
何を言っていいか分からず、恐る恐る僕が帰る?と聞くと、リョウジは無言のまま立ち上がった。
それから僕らは、家庭科準備室を出た。足早に歩くリョウジを僕は追いかけたけど、どんな言葉もかけられなかった。
学校を出るまで、先生達には合わずに済んだ。用務員のおじさんに見つかってしまったけど、ありゃお前ら何してんだ、早く帰れ先生に怒られるぞと、言われただけだった。
逃げるように校門を抜け、僕とリョウジは、ずっと無言で歩いた。別れ道まできたところで、じゃあまた明日、とだけ僕が言うとリョウジはやっと顔を上げた。
その時の顔がいまだに忘れられない。
小学校4年生なのに一気に年老いたような顔。もう全部へし折られてしまって、悔しがることも忘れてしまって、悲しむにも悲しめない、生気を奪われて途方に暮れた顔。
あの日以来、リョウジはすっかりおとなしくなった。誰とも話さなくなり、僕にさえ話しかけてくることはなかった。そしてリョウジが黙り込んでいれば、誰も彼には話しかけない。
リョウジとは中学まで一緒だったけど、あれから同じクラスになったことはない
見かけることも声を聞くこともなかった。登校していたのかどうかさえ、僕は知らない。
あまり思い出したくはない話だ。
いくらリョウジがうざい奴だったからとはいえ、暴力をふるうとか。加害するような奴ではなかったのに。ただその存在が鬱陶しいというだけで皆……僕自身を含め、彼を遠ざけた。あの時僕はリョウジになんの慰めの言葉もかけなかった。むしろ、リョウジが話しかけてこなくなったことに一番ホッとしていたのは僕だった。
だがあの時大人の不用意な発言で、リョウジの何かが奪われたことを一番よく知っていたのも僕だった。
それは、ひどく気持ちの悪いものだった。直接手を下さなくても、無自覚な言葉がナイフ以上の刃となって、リョウジを抹殺したようなものだ。それがクラスメイトではなく大人達によってなされたこと。その無慈悲さが怖かった。
今日、数十年ぶりに、小学校、中学校を過ごしたこの街に戻って来ていた。
車で懐かしい道を運転中、通りを歩いている男が、僕の視線を引いた。猫背で俯いて歩く姿、服もヨレヨレで匂いが染み付いていそうな汚い男。僕の何倍も年老いているように見えた。なんとなくあれがリョウジのような気がして、そうではありませんように、と僕は願っていた。どうか子供の頃の悲しみをリョウジが引きずっていませんように。どうか、心が打ち砕かれたままでいませんように。
男の横を通り過ぎる瞬間、男が僕の視線に気づいて顔を上げる。
心臓がどきりと跳ね上がった。
男はやはり、リョウジだった。そしてリョウジはあの時と同じ顔をしていた。あの日、学校を出てからの別れ道、あの時からずっとそこにいるみたいだった。無邪気さも何もかも一瞬で潰されて、無力さだけが剥き出しになったまま、リョウジはそこにいた。
リョウジの過去のある一点だけを見つめたその眼差しは、僕自身のことも見つめていた。
──僕は何もしなかったのだ。リョウジから逃れたくて、僕はクラスメイトの残酷さも大人の残酷さも見て見ぬ振りをした。僕はそれを隠し続けてきたんだ、僕自身からも。それは完全に僕のエゴのために。
幽霊に取り憑かれたように生気のない焦点の合わない表情のままリョウジは、車で去っていく僕をずっと見ていた。小さくなっていくリョウジの姿をバックミラー越しに認めながら、僕は理解した。僕は一生、あの視線に取り憑かれたままだ。
信号
木漏れ日の光を一つ一つ拾い集めるように歩く。
落ち葉は全部踏み潰して歩く。踏み潰す音はサクサクと軽やかで全然痛そうじゃない。
アスファルトのひび割れを避けながら歩く。ひび割れが突然裂けて落ちたらどこに行くんだろう。
下校中、私はいつもそうして時間をかけて歩く。
あの信号機のところまで。あの信号機は、赤が長いから。赤信号が、前を歩くあの子達と私を遠ざけてくれるようにと。
あざ笑う声の中に聞こえてきたのは私の名前だった。時折振り返って突きつけられた冷たい視線が私を俯かせた。私はそれが全部分からなくなるまで、ゆっくりと歩く。あの信号機の赤は長い。
どうか、あの子達と赤信号で一緒に止まることがありませんように。