パラレルワールド
試しにAIに「パラレルワールドの行き方教えて」と聞いてみた。
即座に「はい、パラレルワールドですね!ご案内します」とナビが立ち上がる。冗談のつもりだったのに、まじか。俺は好奇心に負けてナビに従って歩き出した。
──三百メートル先、右方向です。
──二百メートル先、左方向です。
──その先、しばらく道なりです。
──目的地に辿り着きました。
たどり着いたそこは、自宅だった。なんだそれ。
とりあえず入ってみると普通に妻がいる。
「あ、おかえりー帰るの早かったね」
ソファに座って、スマホをスワイプしている妻。何もかも見慣れ光景だ。声も仕草も無造作に束ねた髪も、妻そのもの。実に彼女らしく存在している。
もし本当にパラレル世界だったらここにいるのは、『妻ではあるけど違う誰か』というわけか。そんな風に思えば、いつもの妻でもなんか新鮮だった。普段見過ごす何気ない光景が、不意にいとおしく感じる。
俺は妻を見つめながら、ただいま、と言った。えー?ふふ、と笑う妻。俺はちょっと胸が高まるのを感じていた。だが次の瞬間、妻の顔が凍りついた。
「……誰なの?」
その一言は刃物みたいに俺を引き裂いた。言葉を失った俺に、妻が鋭い視線を投げつける。
「あなた、誰? あの人は?」
その瞬間、理解した。冗談でも幻覚でもない。本当にパラレルワールドに来てしまったと。俺を凝視して立ち尽くす妻を置いて、家を飛び出した。震える手でスマホを開き、AIに問いかける。
「元にいた世界へ帰る方法を教えてくれ」
だがAIから返ってきたのは、冷たい定型文だった──すみません。私はその質問には答えることはできません。
ナビも立ち上がらない。何度やってもAIは、同じ返事ばかり繰り返す。
慌てて別の手を尽くした。アプリを入れ替えるとか、関連するFAQを漁るとか、もちろん元きた道や、あらゆる場所を歩き回った。
だが答えなどあるはずもない。来た時と同じように、平行世界の変わり目は見つけることが出来なかった。結局、俺は家に帰るしかなかったのだ。
恐る恐るドアを開けた俺に、妻が言った。
「おかえりー」
いつもの妻。いつもの仕草。いつもの見慣れた光景──妻は何事もなかったように俺を迎えてくれた。
俺は元の世界に戻ることが出来たんだろうか、それとも──?
あれから数年が経つ。
俺は今も妻と共に暮らしている。働き、食事をし、休日には家のことをし、あるいは妻と出かけ、たまには友人たちと酒を飲みに行く。表面上は何も変わらない。
だがいつも、あの瞬間、妻のあの言葉が俺の心を縛っている。
「……誰なの?」
驚き拒否した妻の目。怯えた声。
あれ以来一度も妻は、俺に疑うような目を向けたことはない。何事もなかったように接してくれている。だが……本当に?
俺は結局、元の世界に戻ったのかどうか確証が持てないでいる。平行世界は、あまりにも元の世界とよく似ているから。もしまだここが平行世界ならば、俺が何もなかったフリをしているように、妻もまた、そうではないのか?心のどこかで目の前にいる男は自分の知っている夫と違う、と疑ったままなのではないか?
そんな疑念が俺の胸の中でくすぶるようになってしまった。働いていても家にいても食事をしていても友人たちといても、常に何かしこりのようなものが胸に巣食っている。
本当はここはまだパラレルワールドなのではないか。いるべき世界は別にあって、俺は本来ここにいてはいけない異物だ。そんな違和感が拭いきれないまま、日々を過ごしている。
「……あの人、どこに行ったの……」
ふと妻がそう言った気がして体を起こす。妻は隣で静かに寝息を立てている。
俺はそっと彼女の髪を撫でた──ここがパラレルなら彼女の夫はどこに行ったんだろう。俺と入れ違いになったのか、別の平行世界に行ったか、消えてしまったのか……心の中で叫んでいた。戻ってくれ、と。全て元通りになってくれ。俺は君の隣にいるべきなのか?本当の妻がどこかで君のように俺を探しているのか?
彼女からそっと離れて、スマホを取り出した。アーカイブに残ったナビの記録を眺める。そこにはかつて示された道が、薄く光っている。指で辿ることはできるが、俺は元の俺に戻れない。
俺は今どこにいるんだろう。元の世界か、パラレルワールドか。
あの時妻は俺が俺でないと一瞬で見抜いた。でも俺にはわからない、この妻は本当に愛した妻かそれとも平行世界の妻なのか。何故俺は、分からない……
俺は隣で眠る妻をそっと抱き寄せた。寝ているはずの妻は、身を強張らせる。俺はたまらなくなって込み上げる嗚咽を抑えた。
軽い好奇心でねじれてしまったのは平行世界ではなく、俺と妻だった。
俺はいつまで、『普通』に生きてるフリが出来るだろう……腕の中で息を殺してじっとしている妻の背中を、俺は消せない悔恨を拭うように撫で続けた。
時計の針が重なって
うちのママとパパは、時間のことになるといつもケンカになる。
ママは「遅れちゃダメ、早くしなさい!」って口うるさく追い立てるし、パパは「まあいいじゃないか、遅れても」ってルーズすぎる。
どっちも嫌だから、私は魔女にお願いして二人を時計に変えてもらった。
長くて細い針がママ。短くて太い針がパパ。
針になったら静かにしてるかと思ったら、やっぱり長針は早く早くとうるさいし、短針は時間なんかにとらわれるなよ、と無責任。
仲が悪いのも変わらない。二人は一時間に一回重なるたびに大ゲンカ。
11時台だけは針が重ならないから静かで本当に助かる。
でも深夜私が眠ってる間、一時間に一度針が重なる時、二人がしてるのはケンカじゃないみたい。何をしてるかっていうと、もちろんキスとかそっち系のモロモロなこと。
朝になると、ママの針の動きがなんか気怠くなってて笑える。
ある朝起きたら時計は壊れてた。
針は捻じれて文字盤にはヒビと赤い染み。
昨日の夜中、ケンカしちゃった?それとも壊れるくらい激しく愛し合っちゃった?
どちらにしろ、大人なんだからいい加減にしたらいいのにね。
壊れた時計に用はないから、ゴミ箱に捨てた。
かわりに、魔女に時計をもらった。
虫たちがもぞもぞとうごめきながら体をくねらせて数字を作り時間を教えてくれるキュートな虫時計。虫たちのカサカサする音がチクタクの音なんだって。可愛いのでめでたしめでたしです。
僕と一緒に
あいつが何か一緒にやろうと言い出す時は、決まってロクでもないことだった。
人あたりは良くて、立ち振る舞いも口調もやけに丁寧で柔らかいから、他人から見れば悪い奴には見えないんだろう。皆、分かってない、あいつの実像を。けど俺は知ってる、あいつが本当はどんな奴か。いつも最後には俺に汚れた面倒事全部を押しつけて逃げ出すんだ。何度だって繰り返されてきた。
今回の尻拭いで、とうとう俺は自分自身が嫌になった。俺が這いずり回っている間に、あいつは平然と彼女に近づいていた。優しい笑顔を振りまいて。
いい加減分かった。あいつは俺をすり減らしたいんだ。なら、あいつの望み通りだ。彼女は去って俺には何もない。これで満足かよ。
あいつこそ知ってるのかもな。何をすれば俺がボロ布みたいに端からほつれていくのか。
もう二度と、あいつと一緒に何かをやろうなんて思わない。金輪際関わりたくない、会わない。
連絡先は削除したし、あいつの名前を呼ぶことさえしたくない。もし俺のところに来たって、帰れと言って目の前でドアを閉めて、それきりだ。
だから今、俺はさっさとドアを閉めるべきなんだ。
──何もしなくていい……
消え入りそうな声であいつはそう言った。
いつもは言葉巧みに俺を振り回すくせに、そんなことを口にするなんて初めてだったから、俺は。
──ただ、僕と一緒に……
震える声が掠れて、そこで途切れた。
その続きが何なのか、痛いほど分かってしまった。本当のあいつを知ってるのは俺だけだから。
だから俺は──
cloudy
なんかcloudyな空が似合う人だった。
出会ったばかりの頃、彼女にそんな印象を抱いていた。晴れそうにないけど、雨にもならないだろう、そんな淡い灰色の空がよく似合う人──窓辺に座り外を眺める彼女の横顔は、アンニュイな曇り空に溶け込むようで美しかった。触れられそうで触れられない曖昧な余白みたいなものが彼女にはあって、それが僕を魅了した。
けれど僕の伴侶となり年月を重ねた今、彼女に似合うのは、もっとなんかこう……濃い曇天って感じの空だ。重く垂れ込めて空を覆い、いつ稲妻が光って強い雨が降り出してもおかしくない、そんな不穏な曇り空。
濃淡の違う灰色の雲が、刻々と形を変えながら重なり合う様子は、目が離せないほど空を劇的にする。まるで僕を翻弄する妻の機嫌のようだ。だけどどんな暗い曇天でも、その奥には晴れ間が隠されていることを僕は知っている。暗い雲が光を帯びた時、神々しいほどの美しさを見せることも……。
今にも雷鳴がとどろきそうな曇天の中、僕は妻のもとへと向かう。まっすぐ迷わず一目散に。曇りの奥にある光を信じて。
虹の架け橋🌈
「雨が上がったらここを出よう」
なんて言ったけど、本当はあなたといたいから雨はやまなくてもいいと思っていた。
静かな図書館の片隅で、雨の匂いと雨音だけが私たちを包み込む。曇った窓の外の世界はぼやけていて、私たちのいる場所だけ世界から切り離されてるみたいだった。
「今、なんの本読んでるの」と聞くとあなたは私の知らない海外のSF作家の名前をあげた。
「設定がすごく独創的でさ……」
私はその分野はさっぱりだったけど、言葉を弾ませるあなたの話を聞くのが好きだった。
会話が途切れた時あなたはそっと私の手を握った。驚いたけれど、あなたの手のひらから伝わるぬくもりと鼓動に胸がいっぱいになった。
図書館の受付から死角になっていて私達の他に誰もいないのをいいことに、私たちは唇を重ねた。好きだと言葉で伝える前に、そうすることが当然のように。
唇が離れた後あなたは「もう雨は上がったかもな」なんて何でもないフリをして曇りガラスを拭った。
その時だ、虹がかかっているのを二人で見たのは。
雨雲を残した空にうっすらとかかった虹──私たちは思わず顔を見合わせて笑い、また手をぎゅっと握り直した。まるで誰かが私たちが想いを通わせたことを祝福しているみたい──そんなこと思うほど浮かれている自分がおかしかった。きっと彼も同じだったんだと思う。私たちは目を合わせ微笑みあい、吹き出して笑った。
それから私たちはやはり、そうするのが当然みたいにキスをした。手を強く繋ぎ直して、唇は柔らかく合わせた。静かな図書館の片隅、音が響いてしまわないようにそっと、でも何度もキスを繰り返した。キスの合間に虹を見ることもせず、ただ幸福な時に身を委ねていた。
雨上がりの空に、虹が大きくかかっている。
あの日と同じようにあなたは私の隣にいる。でもあなたはもう私の手を握ろうとはしない。今は虹がかかる空を美しく切り取って写真におさめることに一生懸命。あなたがスマホを空にかざす隣で、私は薄くなっていく虹を見つめていた。あの日図書館の一角で私たちが夢中でキスを交わしていた時、いつの間にか虹は消えていたことを思い出す。あんなキス、もう今の私たちには出来ないだろう。
でも私達はまだこうしてお互いの隣にいる。
私は静かにひとつ空に願いを掛けていた。
虹は儚く消えてしまうけど──私とあなたの間に架かる梯子は消えることはありませんように。
虹の端は次第に薄れて空に溶けていく──消えちゃうよ、虹。あなたにそう声をかけようとしてやめた。結局私はあなたに、何かに夢中になっていて欲しいのかもしれない。
一人で虹を眺めていた私の手を、あなたの手が掴む。あなたは探していたものを捕まえるようにぎゅっと強く私の手を握り締めた。その力強さと温かさに、私は思わず息をのむ。あなたのぬくもりに、いつだって私は満たされる。