形の無いもの
天井のシミから目を離せないでいた。
「何見てんだ?」
飼い猫が興味深そうに訊いた。
僕は寝返りを打って背を向けた。
「別に何も」
「ニンゲンは俺たちに見えないものが見えるらしいな」
「お前だって何もないとこを見つめるだろ」
「あれは幽霊を見てんだよ」
フェレンゲルシュターデン現象は正しかったらしい。
「どうしたんだよ。悩みってやつか?」
「……そんなとこだよ」
猫はぺろりと舌を出した。
「悩みって、どんな見た目なんだ? 恐ろしいか?」
「形なんてない。見えるものじゃないよ」
「形がないのに怖いのか?」
「そうだよ」
「今ここにいるのか」
「今はいない」
飼い猫はつまらなさそうに言った。
「ならいいじゃん。美味いもんでも食って寝たらどっか行くって。それより飯出せよ。久しぶりに缶詰のやつ開けるってのはどうだ」
「お前、腹減ってるだけだろ」
猫は僕の背中に押し潰されないよう飛び退いた。
その黄色い目は、いつだって形あるものを見ていた。
少しは見習ってやるか。
弾みをつけて立ち上がると、猫は上機嫌についてきた。
ジャングルジム
ジャングルジムの頂上で、恐る恐る立ち上がった時のことを思い出す。夕暮れ時。クラスメイトたちが姿を消してから、煮え切らない自分と決別するために、骨組みに足をかけた。最上段まではすぐに登れた。あとは立ち上がるだけだった。肝を冷やすには十分な高さ。手を離してしまえば、自分を支えるものはないこともわかっていた。最初に手を離した。屈んだままバランスをとる。重心を意識し、膝に力を込める。目線が、ぐぐぐ、と予想より高くまで上がっていく。膝が伸び切った時、できた、という実感が足元から這い上がってきた。思ったよりも簡単だと思った。その高さは生々しいスリルとともに、自分のものになった。
久しぶりに訪ねた地元の公園はすっかり様相が変わっていた。ジャングルジムはほとんどなくなっていた。六段あったそれは、落下による事故を危険視され、二段の立方体になっていた。肌の白い少年たちが退屈そうに腰掛けて駄弁っていた。
私はどことなく彼らが哀れに思えた。その時、ポケットの右手が固い感触を捉えた。取り出してみると、燃料の入った百円ライターだった。ちょうど少年たちが場所を変えたので、私はそれをジャングルジムの角に置いて帰った。
愛を叫ぶ。
いくよー、と遠くで君がボールを掲げる。
グラブを上げて答えると、君はいかにもといった動作で大きく振りかぶり、投球する。緩やかに弧を描いたボールは、パスっと音を立てて俺の左手に収まった。懐かしい感覚だ。右手に持ち替える。
ばっちこい、と君は声高らかに構える。その左肩やや上方に柔らかく返球する。仮に取り損なったとしても体に当たらないよう配慮したのだが、君は危なげなくキャッチし、もっと速くとせがんでくる。
キャッチボールの相手をしながら、真剣にボールを投げる君の実力を無意識に測っていた。
ボールを握ると、無性に全力投球してみたくなる。ブンッと真っ直ぐに飛んだボールが、パシンッと乾いた音を立てて相手のグラブに収まる、あの瞬間を味わいたい。
だが大人になった今は難しい。
君はキャッチできないかもしれない。速球が君を痛め、心まで傷つけるかもしれない。たとえ体に当たらないよう投げても、不慣れな君を傷つけない確信はない。
愛を叫ぶという行為は、たぶん全力投球に似ている。
練習がいる。距離感がいる。信頼がいる。いろんな条件をクリアして初めて受け止めてくれる人ができる。
のんびりとしたキャッチボールは思いのほか楽しかった。何より君が上機嫌に投げてくれるのが嬉しい。
今はこのペースでいい。焦ることはない。少しずつ、互いの信頼を育めばいい。
想いを全力投球する日を想像すると、ボールを握る手に力が籠った。大きく外れたボールはしかし、ポン、とグラブに収まった。ナイスキャッチと笑う君に、その日は案外遠くないのかもしれないなと思った。
モンシロチョウ
モンシロチョウが一匹、ひらひらと飛んでいた。おぼつかない軌道を描いて、鉢植えに舞い降りる。疲れているのだろうか。ゆっくりと細い脚を動かしている。
こんなところまで、ご苦労なこった。
アパートの五階。地上から飛んできたのだとすれば、かなりの高さだ。何に釣られてきたのかはわからないが、種族の中でははぐれ者だろう。メスかオスかはわからないが、つがいがいる場所ではない。
地上へ帰りな、と心の中で諭す。だが、あろうことか、その蝶はまた上の階へと彷徨っていく。
空へ上りたいのか。
幼虫の頃、空を知りたいと願ったのだろうか。地上から離れ、生物としての使命すら置き去りにして、高みを目指すことを決めたのか。
頑張れよ。
階上へと消える白い蝶を見送る。
俺だって負けてられないな。
机に向かい、今日も創作の世界へと舞い上がる。
初恋の日
その名前を素直に呼べなくなった日。
一年後
春を彩る無数の花びらを、一人見上げた。
ふわふわと小さく揺れる桜。なぜか母性を感じた。
変わってもいい。変わらなくてもいい。そう言っているような気がした。ぼんやり佇んでいる私を、桜は許した。理由を尋ねることもせず、ただ柔らかな腕を広げていた。そっと花びらに手を伸ばすと、小さい頃、母親の膝に頭を置き、その頬に手を伸ばした光景が蘇った。
職場でつまずいた。人間関係で、思いっきり。どうやったって元の環境には戻れない。辞める覚悟もなく、かといって続ける気力も持てないまま、今日に縋りついている。
一年を思うのは、決まって桜を見る時だった。生まれ月だからだろうか。桜の木にはいつも私の過去があった。
去年の私は、何を思っていたのだろう。新しい配属先。新入りとして、期待に胸を膨らませていたはず。それが今となってはどうだ。こんな自分をかけらも想像しなかっただろう。
私は、どうすればいいの。
桜の木は答えることなく、ただそこにある。変わらない私と、変わりゆく私を見ていてくれている。そして一年後、また立ち止まる時間をくれるのだろう。
一年後の自分は何を思うだろうか。
わからないけれど、こうして桜を見上げているに違いない。