『泣かないで』
「泣かないで」って言われたことはある。「お前は泣けば済むと思っているんだろ?」と言われたこともある。
あんなに泣くのは得意だったのに、何もしなくても涙が溢れることもあったのに、今では一滴も涙が出ない。
あまりに辛く悲しいことがありすぎたんだ。
泣いても何も変わらないと知ってしまったから。
「お前、泣きもしないんだな」
そんな風に言われるようになった。だからドラマとかでわーっと泣ける人は所詮演技なんだって思ってた。
なのに今私の目の前には、号泣する女がいる。
「泣かないで」
私がそのセリフを言うことになるなんて思わなかった。
この目の前の女は過去の私であり、今の私がなれない私。
「羨ましい」
そんな言葉が思わず口をついて出た。
目の前の女は怪訝な顔をして私を見た。
なんだ、涙止まったんじゃない。演技だったってことか。
「あんたみたいな女が一番嫌い!」
目の前の女は私にそう言った。うん、私もそう思う。私は泣けもしない女になってしまったんだ。だから感情をむき出しにして、そんな風に泣いたり怒ったりできるあなたが羨ましい。
「私は嫌いじゃないけどね」
そう言うと女は私のことを怯えた目で見た。そんなに怯えることはないと思う。だって私はただ泣けないだけの女なんだから。
「怖がることはないわよ。何もしないし。ねえ、どうやって泣いてるの? 私、泣けなくなっちゃったのよ」
「はあ?」
女は怪訝な顔をして、私は関わったらヤバい奴だと思ったのか、鞄を抱えてその場を逃げるように立ち去った。
私は本当に羨ましかっただけなのに。上手くいかないものだ。彼女の背中を見つめながら、私は立ち尽くしていた。
なんの感情も湧かない。そんなときは心の整理をする。心の整理とは言っても、部屋にあるものをひたすら捨てるんだ。思い出も、言葉にできないモヤモヤした感情も合わせて捨ててしまう。
スッキリした。
大きなゴミ袋が三つ。今回のモヤモヤはこの程度で済んでよかった。
泣くことはストレス発散にもなるらしい。泣けない私はそれができないんだから、こうしてものを八つ当たりのように捨てるしかない。
祖母からの手紙、もう祖母は十年以上昔に亡くなっている。いつも捨てようとして捨てられないんだ。この手紙だけは。
久々に開いてみる。
『まあちゃん、泣かないで。ばあちゃんはいつでも味方でいてあげるからね。だから頑張るんだよ。健康に気をつけて』
短い手紙だ。そうか、この手紙からかもしれない。泣けなくなったのは。だから捨てられなかったんだ。
いつの間にか私の頬を涙が伝っていた。なんだ、私泣けるんだ。
でも、泣かないんだ。私は祖母と約束した。祖母はもういないけど、約束は有効だから。
私は頬の涙を手で拭うと、その手紙をゴミ袋に入れた。もう二度と泣かないために。
(完)
『冬の始まり』
──もう無理かもしれない。
そう思うのは何度目だろう?
重い体を引き摺りながら、動かない頭とよれたジャケットを引き摺りながら家路を辿る。今日は終電で帰ることができた。
風呂は、朝でいい。飯は、箱買いしたプロテインバーとこれ一本で1日分の野菜がとれるという野菜ジュースでいい。
口の中がパサつく。ザラザラと砂を噛んだような不快感に、飲み込むのを躊躇したが、ペタンコの腹は空腹を訴えている。ゴクリと無理やり飲み込んで、そして水道の蛇口から直接水道水をガブガブと飲んだ。
鉄臭い。大きな口を開けたから、荒れた唇が切れて血が滲んでいた。
今回は何日会社に泊まったんだっけ?
ジャケットのポケットには丸められたネクタイが入っており、袖を捲り上げたシャツは肘の辺りで皺が寄っている。ボタンを外す手が震える。
──さすがに限界だろ。
体は悲鳴をあげている。その悲鳴に耳を塞いで無理に仕事をしてきた。周りはみんな死んだ目をして働いている。まだ下っ端の俺は自分だけ帰るなんて言えなかった。
先日また一人、人が減った。辞めるという話は聞いていなかった。彼は突然来なくなったんだ。
狡いと思った。俺だって逃げ出したい。周りの死んだ目をした奴らのその目が「お前は逃げるな」と言って俺を鎖で縛りつけている。
下着や靴下はコンビニで買える。今はいい時代だ。夜中でも大抵のものは揃う。
何日も眠っていなかった。一刻も早く眠りたいのに、俺は電気もつけずにテレビだけをつけた。深夜の通販番組が流れている。楽しいと思って見ているわけじゃない。ただ、会社以外の世間と繋がりたかった。
下着姿になって床にペタリと座ると、フローリングの冷たさに身震いした。
掃除を最後にしたのはいつだったか。ざらりとした床に不快感を覚えて、のそのそとベッドに上がる。
薄っぺらい布団にくるまったが、凍えるように寒かった。毛布……
部屋の奥にある収納から埃っぽい毛布を持ってくると、くるまってようやく震えがおさまってきた。
──温かい。
温度なんて感じたのはいつぶりだろう?
ただ垂れ流していたテレビからは、暖房器具が紹介されている。
もしかして、もう冬なのか?
どうりであんな薄い布団では寒いわけだ。フローリングの床が冷たいわけだ。
夏の終わりにも気付かなかった。いつの間に秋は過ぎたんだ?
毛布にくるまったまま、分厚いカーテンを開け、窓を開けてみた。
寒っ……
これは冬だな。慌てて窓を閉めてカーテンもキッチリと隙間なく閉めた。そしてただボーッとテレビを見ていた。内容は入ってこない。ただ光を眺めているだけだ。
ピピピピ
スマホのアラームでふと我にかえる。もう朝か。ペタペタと冷たいフローリングを歩いて風呂に向かう。いつからはもう記憶にないが洗濯もしていなかった。
新しいタオルを出してシャワーを浴びる。
頭をガシガシと洗い、体も洗うと泡を流して風呂を出た。タオルで全身を拭いて、目の前の鏡を見たら幽霊のような自分の姿に、悲鳴をあげそうになった。
ボサボサの髪、落ち窪んだ目とそれを取り囲む酷いクマ、げっそりとこけた頬、顔が丸いことを気にしていた頃の俺はいない。
──俺、何してんだ?
下着を着て、シャツに袖を通そうとしてやめた。野菜ジュースを飲もうとしてやめた。その隣にあった常温のビールの缶をプシュッと開けて、一気に飲み干した。
分かっている。今から仕事に行かなければならない。酒なんか飲んでいけるわけがない。それでも俺は次々と缶を空けた。
あの周りの死んだような目なんてどうでもよかった。スマホの電源を切って、お湯を沸かしてカップ麺に注ぐ。
体にいいもの、栄養価が高いもの、健康も仕事のうち、そんなこともどうでもよかった。
ラーメンをすすってスープまで飲み干すと、ベッドに入って目を閉じた。
冬はいい。澄んだ空気が俺の頭もクリアにしてくれる。よし、逃げよう。
その前に、おやすみなさい。
(完)
『終わらせないで』
今日もあいつは暴君みたいに言いたいことだけ言って去っていく。
残された者のことなど何も考えていない。
あいつは自分のことを正義の味方か何かと勘違いしていて、いつでも自分が正しいと思っている。だからこんな馬鹿げたことができるんだ。
「じゃあ俺はこれで」
名を名乗るほどの者じゃないんで。と後に続くような態度であいつは去った。俺のばあちゃんを背負って、重い荷物を何段もある長い階段の上まで持って行ったんだ。
そんな必要はなかった。ばあちゃんは階段の下を歩いてはいたが、階段を上がるつもりはなかった。なぜなら最寄りのスーパーも家も階段の下にあるんだから。
階段の上にあるのは街が一望できる展望台と、神社と数軒の家だけだ。
「ばあちゃん、俺が荷物運ぶからそこで待っとって」
「すまんな、キヨシ」
「いいんだって。いつでもあいつの尻拭いは俺の仕事だからさ」
俺はばあちゃんの荷物を家に運ぶと、来た道を引き返してばあちゃんを背負ってまた家に帰った。俺の腕力ではばあちゃんを背負って荷物まで持って階段を下りることはできない。
あいつは本当に話を聞かない。「結構です」と言っても、これくらい平気だとかなんとか言って勝手に世話を焼く。それが相手のためになるならいいんだが、大抵は余計なお世話なんだ。
それでも自ら誰かのためになることをしようと思うのは凄いことだと思う。凄いんだが、ちょっとあいつは斜め上をいく。
ばあちゃんを家に届けると俺はあいつを追いかけた。あいつの行く先は見当がつく。長年腐れ縁をやってないからな。
「マコト! 何度も言っているがうちのばあちゃんの荷物を階段の上に運ぶのはやめてくれ」
「困ってるお年寄りがいたら助けなくてどうする」
いつもこうだ。助けたつもりがかえって邪魔をする。そして自分が正しいと思っているから俺の話なんか聞かない。何度言っても変わらないんだが、いい加減迷惑だとどうにかして伝えたい。
「そう言えばさ、担任の山本が結婚するらしいぞ」
「あっそ。興味ない」
「キヨシは本当に他人に興味がないな」
そんなことを言われたって、担任の結婚など興味を持てない。そんなことより、俺のばあちゃんのことをそろそろ覚えてほしい。他人に興味がないのはどっちだと問いたい。
「俺帰るわ」
「なんだよキヨシ。じゃあなんで来たんだよ」
なんで来たって、ばあちゃんのことを言うためだろ。
「ばあちゃんの──」
「そう言えばさ、山口さん駅前のパン屋でバイトしてるらしいぞ」
なんで来たんだと聞いたくせに、俺の話を遮ってまでくだらない話に勝手に変えたことに、今日はいつも以上に苛立った。
「あのさ、勝手に話を終わらせないでくれるか?」
「あ、ごめん、そんな怒るなよ」
「お前が話を聞かないからだろ! いい加減にしろよ。うちのばあちゃんは階段の下に住んでんだから、勝手に階段の上まで荷物を運ばれたら一人で下ろせないんだ! 何度言ったら分かるんだ! いつもいつもお前のせいで俺が尻拭いしてるんだぞ!」
今日は特別に虫のいどころが悪かった。こんな言い方をするつもりはなかったが、言ってから気付いても遅い。
「悪い」
俺はそれだけ言うとマコトを置いて走って家に帰った。
それからマコトは誰も助けなくなった。
「キヨシくんが言ってくれたんだって? うちも困ってたんだよね。勝手に勘違いして物片付けられたりして」
「そうか」
同じクラスの山本さんと石田さんが話しかけてきた。俺もそれは知っていた。彼女たちの部活は天体観測で、街灯がないプールの近くに望遠鏡を運んだことがある。マコトはそれを部室に戻すのだと勘違いして勝手に望遠鏡を片付けてしまった。それが何度もあった。
マコトの姿が見当たらなくて、屋上に向かうとやっぱりいた。いつも白い歯を見せて笑っているマコトが、今日は膝を抱えて顔を伏せている。
俺は黙って隣に座った。
「俺ってさ、迷惑かけてただけなのかな? 誰かの助けになりたかったんだ」
「うん。知ってる」
「キヨシ、ごめん、迷惑かけて」
「迷惑だけじゃなかった」
確かに迷惑をかけられたことはある。だけど俺は他人のことを考えて一歩踏み出せるマコトのことを尊敬している。誰にでもできることじゃない。
「迷惑以上に被害があったか?」
「いや、そうじゃない。マコトの行動力と正しいと信じる気持ちは格好いいよ」
「そんなことない。俺は全然見えてなかったってことだ。もう終わりにするよ」
「終わらせないでよ。俺が尻拭いしてもいいからさ。世の中から善意が消えたら悲しいだろ?」
俺が憧れたマコトという男は、そんなことで挫けたりしない。いつも真っ直ぐに自分の信じた道をいく奴だ。マコトにはいつでもそんな男でいてほしかった。
「これからはちゃんと相手が望むことをする」
「そうだな。それは大事だ。うちのばあちゃんのことだけどさ……」
「分かってる。もう階段の上に荷物運んだりしない」
「ならいい」
これからもマコトは間違うかもしれない。だが俺の話を聞くようになった。だから間違ったら俺が違うと言ってやればいい。
いや、俺も一歩進みたい。マコトのように迷いなく人を助けられる人になりたい。俺も進む時が来た。大丈夫だ、隣には見本となる奴がいるんだから。
(完)
『愛情』
「俺のこと本当に好きなのか?」
「うん、好きだよ」
「俺とお前の好きは違うようだ。別れよう」
また今回も私は失敗した。なんで男ってのはそういうことをやった後で言うんだろう?
そういうあなたこそ、私のことなんて性欲を満たすだけの道具としか思ってないんでしょ? って言ってやりたい気持ちもあったけど、それは言わなかった。私も同じだからだ。
そそくさとシャツのボタンをとめてネクタイまできっちりと巻くと、彼は私のことを一度も振り返らずに出て行った。
私は仰向けに寝て、ホテルの天井を眺める。こういう時は一人になりたくない。一昨日も夜を共にしたカズユキでも呼んでみようか。
手を伸ばしスマホを掴むとカズユキの名前を探す。
「もしもし、カズユキ今暇?」
『ん? ああ、暇っちゃー暇かな』
「こっち来ない?」
『何? また欲求不満?』
「そんなところ」
私はカズユキに位置情報を送ると、ルームサービスでも頼もうと机に置いてあったメニューを開いた。このホテルは隣の居酒屋のメニューがオーダーできるらしい。
お酒は瓶や缶のビールか酎ハイかソフトドリンクだけど、ちゃんとした料理が食べられるのは嬉しい。ビール二本とサラダと、ポテトフライ、軟骨唐揚げと、お腹もすいたし焼きそばでも頼んでみようか。適当にオーダーして、料理が来るのを待つ。
部屋の端に設置された小さなエレベーターみたいなのが点滅して、そこに料理とビールが届いた。会わなくていいなんて便利なシステムだ。コロナとか流行ったし、人に会わない仕組みはこれからも増えていくのかもしれない。
コンコン
ドアがノックされた。たぶんカズユキだろう。私は全裸にバスローブだけ羽織ると、入り口のドアを開けた。
「何? もういますぐにでもって感じ?」
「違うよ。さっきまで彼氏、あ、元彼になったんだけど、淡白な感じ終わりを迎えたところ」
「あ〜なるほどね。ルミちゃんやっぱり別れちゃったんだ?」
私が別れるのをカズユキは予想していたらしい。誰にでも分かるのかな?
私は性欲が強い。だから週に一回じゃ足りないし、一晩に何度もしたい。だけど彼氏にそんなこと言えないし、疲れたが口癖の彼氏にそんなことを言っても断られるだけだと思って、他の人で発散するようにしてた。
一度だけ昔の彼氏には言ったことがあるけど、冗談だと決めつけられて流された。それで余計に言えなくなったんだ。
彼氏としてはそんな私の行いが気に入らなかったようだ。私としては最大限に気を遣ったつもりだったけど、それは世間の一般常識からは外れているらしい。
「好きだったんだけどね……」
「だろうね。我慢してたんでしょ? 彼氏のために」
「うん。だけど、ダメだった」
じゃあどうしたらよかったのか。好きだった。だから彼のことを優先したし、彼が望む私でいようと頑張った。それではダメなのか。
「これ、食っていい?」
「いいよ。そのポテト、めんたいディップ美味しかったよ。ビールも飲んでいいよ」
「本当だ、これ美味いな」
カズユキはホストで、店は0時からだ。だからそれまでは一緒にいてくれる。深夜に営業が終わった後もアフターがなければ一緒にいてくれる。
カズユキがなんでこんなどうしようもない私に付き合ってくれるのか。それは体だけの関係だからだ。
「俺のことは好きにならないくせにね〜」
「カズユキはそんなの求めてないじゃん。愛とか恋とかさ」
「それはそうだね〜俺はそんなの信じない」
カズユキも孤独な人だ。誰の愛も信じられないらしい。母親に捨てられた過去がそうさせると言っていたけど、本当のところは分からない。
こうして私たちみたいな人間は外れもの同士肩を寄せ合って過ごすしかない。
私はなんでこんなに性欲が強いんだろう? カズユキに抱かれながらそんなことを考えた。肌と肌が触れ合うと安心する。一人じゃないと感じる。私にとっては性欲と愛情は別ものなんだけど、それを理解してくれる人は少ない。
「必要とされたい……」
「どうした? 俺が必要としてるよ」
「違うの。私は愛情も欲しいの」
「それは俺では無理だな」
私は分かっていてカズユキにそんなことを言ったんだ。カズユキだって人を愛したくないわけじゃない。愛したいけどできないんだ。私は酷い。
「ごめんね」
「謝らなくていいよ。愛してるってどんな感じ?」
「分かんない。私も愛とか分かんないかも。いつも間違ってるって言われるし」
「なんだ、分かんないの俺だけじゃないのか」
「そうだね。愛ってなんだろうね? でも私にとってカズユキは大切だよ」
「そっか。俺もルミちゃん大切だよ。やらせてくれるってだけじゃない。理解しようとしてくれるし、辛い時にそばにいてくれる」
他人がどう言ったっていい。愛が分からなくてもいい。カズユキは私のことを大切だと言ってくれた。今はそれ以上に望むものなんてない。二人だけに分かる関係でいい。
(完)
『微熱』
疲れた。今日は何度も凡ミスをした。本当に些細なミスだ。大きなミスではなく本当に数の数え間違いだったり、誰にも迷惑はかけていないが、それでもミスはミス。金曜ともなるとストレスが溜まっているのかと思った。
「中野くん、大丈夫?」
「え?」
パートのおばさんに声をかけられて、ハッと我に返った。退勤時間を過ぎてもボーッと自分の席に座ったままだった。
パソコンの電源を落とし、広げた資料を片付け、飲みかけのコーヒーカップを給湯室に持っていく。なんだか目も疲れている。パソコンの画面を眺め過ぎたのか、頭も重い。
置いてあったスポンジに洗剤をつけようとして洗剤のボトルをシンクに落とした。本当に今日は疲れているようだ。コーヒーカップを洗い、カップを伏せると、鞄を持ってトレンチコートを腕にかけた。
朝は寒かったんだが、オフィス内は暖かい。外に出る時に着ればいいと思った。
秋は物悲しい。人恋しいとでもいうんだろうか。スマホを取り出し、こんな時にだけ連絡を取る奴にメッセージを送った。
『今から会えるか?』
彼女との関係は単純なものではない。会う度に体を重ねているが恋人ではない。昼間明るいところでデートなどしたことがない。
彼女とは大学のサークルの飲み会で会った。その頃はお互いに恋人がいたから、恋人にはならなかった。だが社会に出て、お互いに恋人と別れても、恋人にはならなかった。
恋や愛なんて感情はない。好きで仕方ないなんて思ったことはないし、彼女も恋人になってくれとは言ってこない。
恋人になったら末路は結婚か別れの二択しかない。だが名前のない関係であれば結末など気にすることはない。
いつ終わってもいいとも思うし、永遠に続けたいとも思う。
『今仕事終わったとこ。渋谷でいい?』
彼女からの返信がきてホッとする。人肌が恋しかったのか、それともこんな時だからこそ気を遣わなくていい彼女に会いたかったのか。今日に限って回転の悪い頭は、その二択ですら答えを出せない。
「お待たせ」
「いや、今来たところだから。飯食う?」
「だね。お腹すいた」
適当な居酒屋に入って、生を二つ、続けて焼き鳥やサラダを頼む。
「ここの焼き鳥、ちゃんと炭で焼いてるみたい」「そんなこと分かんの?」
「分かるよ。炭の香りがして美味しい」
「そんなもんか」
どうも今日は感覚が鈍い。味も香りもぼんやりとしている。
「いくか」
「だね」
腹が膨れると、いつものホテル街へ向かう。どこのホテルがいいと決めているわけではなく、空いているところに適当に入る感じだ。
長居はしない。終われば少し休んで帰るんだから、こだわりもない。
「風呂、一緒に入る?」
「いいよ。アキくん今日は甘えたい感じ?」
「ん、そうかもな」
そんな曖昧な回答にも、ふふふと笑って流してくれるのが心地いい。
彼女の胸に顔を埋めると、なんだがとても安心した。なめらかな肌と、彼女の吐息、柔らかい感触。
「ねえ、アキくん体熱くない? お風呂に入ったからかなって思ってたんだけど、終わってもずっと熱い気がする」
「そうか?」
「熱測ってみる? 体温計あるよ」
「そんなの持ち歩いてんの?」
ピピピピピ
「うん。微熱だね。37.2度」
「そうか」
今日の頭が働かない感じも、ミスも目の疲れも、感覚が鈍いのも、全部熱のせいだったのか。
「送っていこうか? 近くだったよね」
「ああ、うち泊まってけよ」
「え? いいの?」
彼女を部屋に連れて行くのは初めてだ。彼女どころか誰もこの部屋に入れたことはない。
彼女は帰り道、コンビニでスポーツドリンクやゼリー、カップ麺のうどんを買った。
彼女には俺の部屋着を貸して、風邪がうつるかもしれないが、狭いシングルのベッドに一緒に入った。
夜中に熱は上がった。彼女は洗面器に氷と水を用意して、額に冷たいタオルを乗せてくれたり、上体を起こしてスポーツドリンクを飲ませてくれた。
朝になる頃には熱は引いていたけど、一人きりじゃないことが嬉しかったし、救いになった。
「なあユカ、俺と結婚しない?」
「うん。いいよ。それっておはようより先に言うこと?」
「まだ寝るからな。次起きた時に言う。それとユカ、ありがとう。夜中起きてたから眠いだろ? 一緒に寝よ」
「うん」
微熱で気付く恋があってもいい。
(完)