「入道雲の正体って知ってる?」
「積乱雲。ちなみに夏に入道雲が多く見られる理由は、他の季節よりも頻繁に上昇気流が起こる為で……」
「あ、もう大丈夫です」
彼女は顔の前に手を出し制止すると、コホンと咳払いをした。
「私が生まれた村の言い伝えでね、こういうのがあって……」
夏に命を落とした人間の魂は、上昇気流に乗って空へと昇る。発生した雲の大きさは、死んだ人間の数に比例する――。
「小さい頃にこの話をお婆ちゃんから聞いてね。夏になると空を見るのが怖かったんだ」
今はもう大丈夫だけどね、と彼女は笑った。
「馬鹿馬鹿し……面白い話だね」
「正直なところが君の良いところでもあり、悪いところでもあるよね」
「ありがとう」
「褒めてないよ」
まったく君は……と小声で何やら呟いていたが、聞こえないふりをした。
「小学校を卒業するまでその村に住んでいたんだけど、村で過ごす最終日、荷造りをしている最中にふと外を見たの」
夏の暑い日だった、と彼女は言った。
ひと際大きい入道雲が出ていて、ふと言い伝えを思い出して怖くなった。だけど、何故か目が離せなくて、そうしているうちにどんどん入道雲が大きくなっていったの。
あっという間に空が暗くなって、激しい雨と雷の音に、思わず耳を塞いだ。どれくらいそうしていたのかわからない。ほんの数分だったのかもしれない。気が付くと、母親に手を引かれて車に乗り込むところだった。
逃げるようにして村を出た。車の窓から見える景色は、知らない場所のようだった。強い風と打ち付ける雨の音、氾濫する川。濁った川の水面から、人の手が見えた気がした。
「それから暫くして、あの場所は廃村になったって、両親が話しているのを聞いた……」
話し終わって一息ついた彼女は、不安そうな顔をしていた。両手で自分を包み込むように二の腕を摩っている。
「今、その村がどうなっているのか見に行ってみない?」
どうしてそんな提案をしたのかわからない。ただ、彼女が生まれた村を見てみたいと思った。
窓から見える入道雲は、いつもより一段と大きく見えた。
細く長い長い農道を抜けると、山の麓に竹林が見えてくる。そこに頂へ繋がる階段があるから、一段一段数えながら登って。途中で何があっても数えるのをやめちゃいけない。何段かわからなくなったら、四十九段から数え始めるんだよ。決して振り返ったり、走り出したりしないこと。丁寧に、確実に、登り続ける。その先が私達の合流地点だよ。
星が綺麗だな、なんて呑気な事を考えながら農道を歩いた。田舎の夜は静かなようで、実は結構五月蝿い。
蛙が一斉に鳴く。遠くでホーホーというフクロウの鳴き声が聞こえた。
「二十三、二十四、二十五……」
なんとか三十段まで来たが、いよいよ疲れがピークに達しそうだ。
「あと何段あるんだよ……」
ぶつぶつと文句を言いながらも登り続ける。数えるのをやめたら何が起こるっていうんだ?
「………。」何かが聞こえた気がした。足は絶えず動かしながら、耳をすませる。
「………!」祭囃子だ。何処からか、祭囃子が聞こえる。
何処かで祭りがあるのか?わからないが、少しずつ音が近付いてくるように感じた。
「……しまった」
段数がわからなくなってしまった。一瞬、足を止める。何段から数え始めればいいんだっけ。確か……。
―ドンッ。
背後で鳴った太鼓の音と同時に、僕は意識を手放した。
「今日が、君と最後に会った日だよ」
何の前触れもなく、彼女が言った。
「どういう意味?」
「どういう意味でしょう?」
「質問に質問で返してくる人って嫌な感じだな」
「少しは自分で考えようという気がないのかね、君は」
彼女はソファに腰掛け、偉そうにふんぞり返っている。
「その一、今日が君と僕の今生の別れになる。その二、前回会ったのが今日と同じ日付だった。その三、特に意味はなく、思い付きで言ってみた」
ぱっと思い浮かぶ事をひとまず並べてみた。
「僕的に一番有力なのは、今のところ三番目だと思うのだけど」
「この私がそんな意味のない事をすると思うのかね?」
彼女はまるで長い髭を撫でるかのような仕草で、顎の辺りを触っている。
「否定してあげたいところだけど、悲しいかな、君なら十分有り得ると思う」
僕の言葉に、今度はぷくーっと頬を膨らませ、眉間に皺を寄せこちらを睨む。
「はいはい、正解は?」
軽くあしらって答えを促す。
「その一が半分正解。今日が君と私の今生の別れになった」
その言葉に、思わず僕の眉がぴくりと反応する。
「君は一度死んでいるんだよ」
「小説を書いたんだ」
二人きりの教室に僕の声が響く。思ったより声は小さい。
「へぇ、君が書いたの?すごいね。なんてタイトル?」
「タイトルはまだない」
「何それ?夏目漱石?」
ふふっと笑った彼女の髪が揺れた。
「いや、まだ完成していないんだ」
「いつ完成予定?」
「わからない。一生終わらないかも」
「一生をかけて綴られる物語……なんか素敵!」
そんなにいいもんじゃないけどね、と思った。
「僕には長編を書く才能がないんだ」
「短編でもすごいと思うけどな」
「いや、短編とすら呼べない程短いんだ。場面毎のちょっとしたストーリーは思い浮かぶのだけど、それを繋げて一つの物語にする事が出来ないんだ」
彼女に伝わるか不安で、少しだけ早口になってしまった。
「なるほどね……。君、小説家になりたいの?」
想定していなかった質問が飛んできて、動揺してペンを落とした。
「なれるわけないだろ」
「可能か不可能か、じゃなくて、意思の話だよ」
「……そんなになりたいわけじゃない」
「そんなにって事は、少しはなりたいんだ」
否定できなかった。
「私にはよくわからないけどさ、ひたすら書くしかないんじゃない?」
「簡単に言うなよ」
「言うよ」
一瞬、沈黙の時間が流れる。
「簡単に、はっきり、言うよ。そうしないと君は何かと理由をつけて逃げる」
「ねぇ、1年後は何処にいると思う?」
「………。」
「私、北海道に行ってみたいんだよね。それも冬じゃなくて、夏に」
「なんで夏?」
「だって真冬の北海道なんてきっとすごい雪だよ。帰れなくなったら嫌じゃん」
それなら北海道じゃなくてもいいのでは、と思ったが言わなかった。そういえば、夏の北海道は比較的過ごしやすいと聞いた事がある。
「それでさ、青森、秋田、岩手……ってだんだん下がってきて、日本一周するの」
「それはまた壮大な夢だね」
「いいでしょ。冬は沖縄で過ごして、時間をかけてまたここに帰って来る」
移動手段は、とか、旅の資金は、とか、色々と問題はあるだろうが、まぁ案外悪くないなと思った。
「でも、今は明日の事さえどうなるかわからない」
僕の言葉に、少しだけ彼女の顔が曇った気がした。