コンクリートの道を進む。
都会の道は快適だけど、すぐ乾いてしまう。
コンクリートの道には、雨は染み込まない。
細い雨の中、傘をさして歩きながら、足元を見た。
足元は相変わらずコンクリートで、しっかりと硬い。
田舎のように、足が水を含んだぬかるみに沈んだり、靴に濡れた土が絡んだりはしない。
便利だ。
文明の勝利だ。
それが何だか、味気ない。
ビルは、雨に打ち付けられても平然と突っ立っていて、信号機は風に吹かれても揺らぎもしない。
雨なのに、空気以外はみんな乾いているような気がする。
自分の心とどっちが乾いているのだろうか。
雨に濡れ、それでも瑞々しさを取り戻すでもなく、冷えるのを気にするでもなく、立ち尽くしている街並みを見つめながらそう思う。
確かに、私の心は乾いているのだ。
この雨の街と同じように。
何をしても楽しくない。
何を見ても悲しくない。
ただ、淡々と毎日を過ごすだけ。
自分で対策を考えてみても、そんな気持ちを周りに相談してみても、効果のある対策はひとつもなかった。
私は相変わらず、無道徳で、無感動な人間だった。
さっき話した精神科の先生は言った。
「誰かと、心と心の繋がりを持ちましょう」と。
しかし、雨すら染み込まない乾いた心と、通じられる心などあるのだろうか。
潤いのある心がなんたるか分からない心。
そんな心は、心と心で話すことが、できるのだろうか。
雨が激しく降り出した。
傘に強く打ち付ける。
雨粒は、街には染み込まない。
コンクリートはぬかるみにはならず、ビルはいつもと同じ絶壁で、信号機は動き続ける。
街は、雨を吸い込まない。
ああ、バレないだろうか。
僕は内心、ヒヤヒヤしながら、部屋を出る。
入れ違いでリビングに入ってきたのは、僕の弟だ。
何でもない時って、僕は一体、どんな動きをしていただろうか。
何でもないフリ、何でもないフリ、と、心の中で何度も自分に言い聞かせながら、廊下を歩く。
やらかしてしまったのは、昨日の晩。
弟が眠った後のことだ。
いつもは、僕も弟も、だいたい同じ時間に夕飯を食べて、同じ時間くらいに眠る。
歳はそんなに離れてないから、日中は別々でも、夕方帰ってきてからの生活スタイルはよく似ているのだ。
しかし昨日は、別々だった。
昨日は、恋人との予定があって、僕の帰りは遅かったのだ。
恋人の機嫌を損ねてしまい、僕がやっと家に帰った時、リビングの時計は0時30分を指していた。
僕たちは、23時30分くらいにいつも眠るから、弟はとっくに寝てしまっていた。
まずは荷物を片して、その時、小腹が空いていたので、とりあえず何か軽く食べて、今日は寝よう。そう思って冷蔵庫を開けた。
今思えば、それが悪かったのかもしれない。
自分の部屋に向かう。
バレるのは時間の問題のような気がしてきた。
ドアを音が鳴らないようにそっと閉める。
昨日の夜、冷蔵庫にはプリンがあった
弟が買ってきたものだろう。
美味しいケーキ屋さんのプリンが、大きなケーキ屋さんの箱に入れられて、冷蔵庫に鎮座していた。
僕は昨日、それを取り出して、それから…。
リビングから大声が聞こえてきた。
弟の声だ。
僕は覚悟を決める。
弟はきっと冷蔵庫を開けたのだ。
そして気づいた。
プリンがないこと。
そして、プリンのあったはずのところに、人がバラバラになって詰め込まれていることに。
僕は過ちを犯した。
昨日、恋人を殺したのだ。
バレないように何でもないフリをしていたのだが。
やはり同居している弟にバレないようには、無理な話だったか。
弟はまもなく僕を探しにくるだろう。
僕はドアの後ろにそっと回る。
手の中にナイフを握りしめて。
何でもないフリをして。
休憩の時、みんなで話すのが好きだった。
話す内容はくだらないことが多かった。
学校の話とか、先生のモノマネとか、流行ってるゲームのこととか。
他の学校の校区の子もいたから、いろんな話が聞けて、楽しみだった。
小学生の頃の、習い事の話だ。
年齢も、通っている学校も、家族構成も、過去のこともみんなバラバラだったけど、あの日僕たちは、同じ合唱団に属しているってただそれだけで、かけがえのない仲間だった。
仲間の中では、僕も普通の男の子でいられた。
幼い頃に轢き逃げにあって、母さんを後悔と懺悔の世界に堕としこみ、両親を過保護に神経質にさせて、妹に窮屈な思いをさせた僕も、仲間と一緒に歌ったり、笑ったりしてる時だけは、小学生の男の子でいられた。
ブレーキ音とかエンジン音は苦手だったけど、合唱団で歌う歌がそれをかき消してくれた。
僕たちは最強の仲間だった。
僕がその仲間に入れなくなったのは、あの日だった。
あの日、交通事故があった。
帰りのバスで。
軽い事故だった。
ちょっと掠ったくらいの。
僕はその頃、母さんや父さんに、「もう大丈夫だから」と口をすっぱくして何度も言っていた。
僕も仲間と一緒にバスでコンクール会場まで行きたかったから。
仲間と少しでも長くいたかったから。
何度も何度もお願いして、やっと父さんも母さんも頷いてくれた。
事故が起こったのは、そうやってなんとか勝ち取った仲間との居場所で座っていた時だった。
僕は。
僕は結局、パニックになった。
一人で勝手に逃げ出してしまった。
そうして、仲間からも、家族からも逸れてしまった。
僕にはあの仲間の中に入る資格はなかったのだ。
バスに乗って、仲間と一緒に移動するのは、まだ、ダメだったんだ。
母さんと父さんは先生を責めるだろう。
仲間を、友達を、妹を責めてしまうだろう。
僕がこんなことになったなら。
先生や仲間や妹のせいじゃなくても、責めずにはいられないだろう。
僕はそう知っていた。
僕は最悪なことをした。
仲間に対して。
家族に対して。
僕は失格だ。
仲間に入ろうなんて思っちゃいけなかったんだ。
今も、僕は心からそう思う。
千切れた腕の先が痛い。
幻肢痛と、いうらしい。
這いずって歩く床は、想像していたよりもずっと固くて、冷たい。
荒れ放題の光景が広がっている。
いろんなものが散乱して、不規則に道を塞いでいる。
障害物だ。
赤い、生ぬるい何かを引きずりながら、前に少しずつ進んでみる。
だいぶ軽くなったはずの体が重い。
目には見えない手がまだありそうな気がしていた。
だから、前に進んだ。
約束を果たそうと思ったから。
あなたは臆病で、怖がりだった。
飛行機に乗る時も、どこか、新しいところへ行く時も、一歩を踏み出す時も。
何かあると必ず、手を握ってほしい、と私に手を伸ばした。
そして、一歩歩き出せば、あとは自分で進んでいける。それがあなただった。
一歩踏み出してしまえば、あなたは生きていけるから。
あなたは、踏み出す一歩目の勇気にだけ、私が必要だから。
だから。
だから、手を繋いで。
最期に手を繋いで。
私が動けなくなった後のあなたの人生の一歩目を。
私がいなくなっても、歩けるような一歩目を。
体を動かす。
障害物が腹這いの体の下で、ゴロゴロ痛む。
私は手を伸ばす。
あなたの方へ。
さあ、手を繋いで
大切な人を庇って死ぬというのは、大切な人にとって、酷いことだ。
遺された人は、自分が死因となったことを苦しみ、救われたことに苦悩しながら生きていかなくてはならないから。
よく、口説き文句で、「命を賭けて君を守る」なんてのがあるが、本当にやられたら、その人のその後の人生には一生苦悩がついて回る。
大切な人を「命を賭けて守る」ことは、実は一番、自己中心的で、酷いことなんだと思われる。
だから、大切な人を庇って死ぬ、なんて、本当はやってはいけないのだ。
大切な人を庇うのなら、きちんと生還しないといけない。
そうしないと、大切な人に一生残る傷を負わせることになるから。
生き延びる自信がなきゃ、庇ってはいけないのだ。
君に向かってアイツが、斧を振りかぶって突っ込んできた時、僕は本当は逃げなきゃいけなかった。
「あなただけは生きて!」君はそう言ってくれたのに。
僕は君が死ぬのが耐えきれなかった。
逃げ出すことができなかった。
そして傲慢だった。
僕は君を庇ってしまった。
君の死に顔を僕が見たくないばっかりに。
斧で切り付けられて生き延びる自信なんてなかったのに。
切り付けられて倒れた僕に、君は泣きながら駆け寄った。
だから考えなしに庇うのはダメだったのだ。
アイツは容赦なく斧を振るった。
僕は…
僕は、なんて罪深いことをしてしまったのだろう。
僕を抱き抱えて、泣きながら、斧に今打たれようとする君に、僕は…僕は…
「「ありがとう。ごめんね」」
僕が絞り出したのとおんなじ言葉を、君が言った。
僕は余計に悲しくて、自分を呪った。
泣いている君の顔。
その奥に斧を振りかぶるアイツの、醜い形相が見えた。