黄色く分厚い皮を割る。
包丁で切れ込みを入れたところを広げて。
酸っぱい香りが、ふわっと立ち上る。
ゆずの香り。
果物の甘さの中に、強く酸味のフレッシュさが香る、あのゆずの香りだ。
それだけでなんか嬉しくなる。
ゆずを割る。
今日は、休日。私にとってはゆずの日だ。
たくさんもらってしまったゆずを加工する日。
しばらくうんざりするほどこの香りを嗅ぐことになるだろう。
ゆずを小さく分割していく。
ゆずを使う料理って何があるだろう。
とりあえず、保存の効きそうなジャムやゼリーは作ろうと思うのだが…そのうち飽きそうな気がする。
ため息をついて、傍に積んであるゆずの山を見る。
なぜこんなにゆずをもらってしまったのか、私は。
旬の片田舎で、たくさんもらう機会があったにしても。
これでは冬至が来る前に、ゆずの香りにうんざりしてしまいそうだ。
ゆずを割りながら考える。
なぜ私はこんなにも見境なくゆずを集めたのか…
そういえば、小さい頃、柑橘系は好きだった。
特に大きいやつ。
親にせがんで剥いてもらって食べるのが好きだった。
やれやれと呆れながらも、大人が自分の前で、果物を割ってくれる。
その時に立ち上る酸味の強力な甘酸っぱい香りが好きだったのだ。
だからゆずを受け取る時、妙にワクワクしたのだろうか。
ゆずの香りを分割しながら、そんなことを考える。
しかし、ゆずはそのままではとても食べられないすっぱさをしている。
せめて食べられる文旦だったら良かったのに。
自分の性質を自分で恨む。
自分にうんざりしながら手を動かす。
ゆずを細かく割り終わって、ボウルに入れる。
二つ目のゆずに手を伸ばす。
あんなにうんざりしてたのに、やっぱりゆずを手に取る瞬間は、根拠なくワクワクした。
寒い。
屋上から見上げる空は、どこまでも広く、寂しい。
無機質なコンクリートにひっくり返って、大空を見上げる。
雪国のこの地で、真冬だというのに、真っ青に広がるこの大空は珍しい。
太陽の光がポカポカと当たるのも貴重だ。
それにしても寒い。
屋上には壁がないから、全ての風が吹き曝しになる。
冷たい風が四方八方から吹き込んできて、しかもひっきりなしに入れ替わるから、暖かい太陽も太刀打ちできないのだ。
自分の頬が冷たくなるのを感じながら、手を空の方に伸ばす。
冷たい風が手を撫でていって、体に寒さが通り抜けていく。
屋上に登ったのはただの気まぐれだった。
暖房に包まれた室内の空気がなんだか、のたっと鉛のように粘ついている感じがして、外に出たくなったのだ。
特に吹き曝しの場所に。
寒い。
寒いが、空気がスッキリしていて、気持ちがいい。
大空を烏が飛び去っていく。
「時にはなにか、大空に 旅してみたく、なるものさ」
学校で音楽の授業の時に習った歌が、口をついて出た。
確かあれは気球で大空を旅するのだったっけ。
烏は自由に飛んでいる。
すごく気持ちがよさそうだ。
私も空を飛んでみたい。
手を伸ばしたまま、大空を味わう。
もっと空に潜りたい。
大空はどこまでも広がっている。
カランコロン
ドアベルの音が響き渡る。
思ったより音が大きくて、ドキッとする。
陽気なクリスマスソングが、店内を満たしている。
しゃんしゃんと、ベルの音が、背景の背景で穏やかに流れている。
案内された席に座って、外を眺める。
雨が小さく降り注いでいる。
結露に覆われた窓のそばには、やたら甘ったく美味しそうなホワイトチョコレートのパフェの広告が貼り付けられている。
コーヒーを待ちながら、カフェの入り口を見つめる。
ベルの音を待ち侘びる。
今日は約束の日なのだ。
私がここへやって来たのは、バイトのためだった。
来たる25日のための。
毎年、24日から25日の夜は、バイトに出る。
仕事内容は簡単に言えば、運び屋だ。
物の仕分けと、配達と。
ベルの音に見張られながら、法律など知らぬふりをして、大量の荷物を届ける。
夜通しそんなことをするバイトだ。
人に見られてはいけないし、見つかってもいけない。
痕跡を残すのもNGだ。
厳しくて難しい仕事だが、私は毎年、この仕事を受ける。
そのために、私はここに来た。
待っているのは恰幅の良い、白い髭を生やしたあの人だ。
私は毎年、一週間前に北欧のこのカフェに訪れる。
24日から25日のバイトに応募するために。
荷物を運ぶために。
やってきたコーヒーを飲みながら外を眺める。
雨が止んでくれればいいのに。バイト当日が悪天候だと、仕事はとてもキツイのだ。
カランコロン
ドアベルの音が鳴る。
待ち人はまだ来ない。
私の待ち人の雇い主は、甘いものが好きだから、あの広告のパフェも好きかもしれない。
そう思いながら、コーヒーを啜る。
奴は、私よりずっと年上で体も大きいのに、仕事の影響か、苦いものや渋いものが苦手なのだ。
そして、甘いものや油濃いもの…つまり、子供の好きな食べ物が大好きなのだ。
私は甘いものも油濃いものも苦手だ。
だから、彼が食事をするのを眺めていると胸焼けをする。
今日も彼は甘いものを頼むだろうか。
パフェでも頼んでおいてみようかな、そう思いながら、ペラペラとメニューを捲る。
毎年のことだが最近は買い出しで忙しいだろうから、ゆっくり待つか。
そう思いながら、私はドアベルを見つめながら、耳を澄ます。
ベルの音が空から聞こえくるのを聞き逃さないように。
カランコロン
カフェのドアベルがまた鳴る。
私は待つ。コーヒーを啜りながら。
25日の雇い主、サンタクロースを。
しゃんしゃん。
カフェの店内に、陽気なベルの音が鳴り響いている。
今日も平和な一日だった。
怪物もいない。
ビルも壊れない。
人が目の前で殺されることもない。
仕事をする人たちが街を我が物顔で駆け回り、自動車が排気ガスを吐き出す。
子供が笑い、大人が微笑む。
空は青い。
平和な、平和な冬の日だ。
危ないことも怖いことも何もない。
ただの日常。ただの毎日。
私たちが掴み取った、かけがえのない平和。
でもそこに君はいない。
戦いの果てにあの必殺技を使って、元凶もろとも吹き飛んだ君は。
私が守りたいのは、世界より、なにより、君だった。
君だったのに。
平和な世界。
幸せな世界。
私たちが守った世界は、穏やかに回り続ける。
私と君を除け者にして。
平和のぬるま湯で、大勢の人たちが、楽しそうに、幸せそうに過ごす。
私はそれに入れない。
もう、一緒に居たい人がいないから。
君がいないから。
私にできるのは、寂しさを感じながら、幸せで平和な、私たちの勝利の証を眺めるだけ。
虚しさと寂しさしか残っていない、私たちの勝利を。
私たちを犠牲に成り立ったこの世界を。
人々が楽しそうに道を行き交う。
自動車がうなりを上げて、道路を走り回る。
ビルは高く聳え立ち、空は青い。
今日も世界は平和だ。
煤まみれの足跡が点々と続いている。
底冷えのする冷たい雪の寒さが、冬の朝を包む。
飯を炊いた竈には、汗が光っている。
火かき棒で、灰を掻き出す。
もったりと乾燥した黒いさら粉が、こんもりと山になる。
開け放した扉から見える雪とは、全く反対の質感だ。
昔から、この灰を見ていると雪に落としてみたい気持ちがうずうずと湧いてくる。
しかし、いつもそれを諌めるように、北風が吹き付けてきて、断念する。
今日も、冬の風の寒さに思わず体を丸めて、慌てて竈の片付けを再開した。
冬の土間は冷える。
こういう山奥の木造一戸建ては特にだ。
あらかた灰を掻き終わったので、火かき棒を置いて、竈の上の鍋を開ける。
白い米をしゃもじでかき混ぜて、味噌汁におたまを落とす。
ぽしゃん、おたまの丸い部分が音を立てる。
湯気が上がる。
朝飯の香りがふわふわと広がる。
朝が来るまで竈に潜っているほど寒さに弱いのに、この山で暮らしているとは、大した根性だ。
山奥に続く煤まみれの足跡を眺めながら、うちの竈猫に感心する。
姿を見たことは一度もない。
奴は冬にうちの竈に必ずやってくるが、こちらにはいつも姿を見せない。
白飯を盛った椀に、味噌汁をかける。
雪の降った寒い朝の土間で、こうやって食べる朝飯が一番美味い。
ばあさんが存命していたなら怒られそうだが。
土間に突っ立ったまま飯をかき込みながら、三年前にいなくなったばあさんのことを思い出す。
街出身だというのに、毛皮と蓑でおしゃれなど思いつかない粗暴な暮らしにも動じない、変わった奴だった。
大雑把だが、三度の飯と睡眠にだけはまめで、朝起きてみれば、もう温かい飯が炊いてあって、鍋に豆腐を手でちぎって投げ入れながら、ハキハキと朝の挨拶をしていたものだ。
早起きだったから、奴はうちの竈猫と顔を合わせたこともあったかも知れない。
…そもそも、うちに竈猫が来ていると発見したのは、ばあさんだったような気がする。確か出汁をとったいりこをやったのだ、なんとか言っていたような。
つまり、儂とあの竈猫は、共にばあさんに餌付けされていた同じ穴ならぬ同じ釜のムジナなわけだ。少なくとも冬の間は。
起きるのが遅い儂には、竃猫の奴が生きているか知れるのは冬しかない。
冬の煤の削れ具合と、雪に残された煤の足跡にしか分からない。
竈猫にほんの少し置いてやる残飯も、食っているのは鼠か猫か虫か、すぐに奥にこもってしまう儂には分からない。
儂と竃猫の奴は、お互い独り身なのだ。
お互い、今は、あくまで一人でいたいのだ。
冬は一緒に越すが、それぞれ一人。
それが、儂と竃猫の距離。
飯を食べ終わる。
味噌汁のおかげでつるりと空になった椀だけが残る。
儂は椀を上り口に置いて、しゃもじとお櫃を準備する。
飯を移して冷ましておこう。
一人分はあの竈猫に。
あとの分は握って昼飯に。
儂と竃猫は、冬は一緒に越す。
お互い寄り添うことはなく、でもお互いの生きている余韻は感じながら。
ばあさんを思いながら。
儂は今年も、顔も知らない竈猫と一緒に冬を越す。