薄墨

Open App
1/16/2025, 10:44:26 PM

「涙色」は赤い。
この言葉を作った昔の人は、普通の涙ではなく、感も極まりに極まった、血涙の方を語源にしたからだそうだ。

催涙弾が降る街には、血の代わりに涙が流れる。
悲嘆にくれる血の涙ではなく、生理現象の透明な涙が、後から後から流れる。

この地は異教徒の地だった。
昔は帝国との貿易地であったこの地は、帝国の宗教が広まっていた。
帝国によって、広められていた。

しかし、この地の人々とこの地の風土が、帝国の宗教の教えを歪めていた。
この地は、帝国ともこの国ともつかない、奇妙な教えと宗教観とを、脈々と伝えていた。

そのため、この地は、帝国からもこの国からも見放され、いや、むしろ厄介なものとして、憎まれ、見捨てられていた。

その一つには、帝国は自国の宗教を、侵略や治国に利用していたことも影響しているのだろう。

ともかく、この地は、帝国にもこの国にも、異教徒の地として忌まれ、暴徒の地として恐れられた。

催涙弾が絶えず降るのも、そういう、国との緩やかな対立のためだった。

この地の人々は、神がこの責苦を救ってくれることを、切望していた。
信じていた。

「神の僕である人々が、血を流しているならば、神は必ず救いの御手をもって、人を救う」
「神の僕である人々が、邪教のために血を流しているならば、神は必ずその御手をもって、邪教を退け、我々に勝利をもたらす」
というような、教えがあるからだ。

しかし、この折、僕は考える。
我らが神は我々が血を流していれば、必ず僕たちを救ってくれるそうだ。
しかし、血でもなく、血涙でもない、透明な涙に対しては、手を差し伸べてくれるのだろうか。

僕たちが今なお流し続けている、透明な涙には、御手を差し伸べられないのではないか。
血の流れない苦しみに、御手を差し伸べてくださるのだろうか。

この地には、もう何十年も透明な涙が流れ続けている。
催涙弾が降る街には、赤い血の代わりに、透明な涙が流れるのだ。

そして、世間では「涙色」すら、赤いらしい。

1/15/2025, 2:07:04 PM

たたへて そうすは、いみじく かしこしことなれど、
うたてし このよをば おぼせば、もくすること たえがたき。

よるに かよわぬ あなたなれば、
われの こころも いさしらぬ

かような よるには たえがたき、
けがれおおき わがこころ。
あなたの こころあるを たのみけり、
ゆゆしき あなたのもとへ そうじょうす。

よもすがら。
そんじることありて うたてとおぼゆおのれに、
ふゆのよながは たえがたき。

ぬること かなわず よもすがら つきかげ ながめおるよるは わびしくすぎゆ。

このよこそ ひとはだこいし よなれど、
たよるひとなく ただ、つれづれなるよの すぐるままなるよ。

こころすごし ふゆのよに、
ひとり つきかげ ながめける。

おとは ゆきにか のまれける、
さびしき よにて さうざうし。

ゆきの あさに さすかげの
こころつよしこと あなたのごとし。

あいたき こころ たかまれば、
このよの ゆきの うたてしは、
ましてうたてく われにふる。

かしこき ほい と しりぬれど、
しかし われは すてざりぬ。
われの をこなる ほいを、
われは おもいすてざりぬ。

あなたのもとへ ちをけりて、
みずにいりて あなたのもとへ。

ゆゆしき とが とは しりぬるも、
われは おぼゆ この ほいを。

かしこみ かしこみ かしこみもうす。
われは あなたのもとへ かけたし。

あなたのもとへ ただ いきたく。

をかしき ゆゆしき わが こころ、
あなたの みこころ けがらはむ。
とく やぶりて たびたまう。

たたえて そうすは いみじく かしこきことなれど、
われは すつらぬ このほいを。

やぶりて すすぎ たびたまう。
をかしき ゆゆし わがこころ。

かしこみ かしこみ かしこみもうす。

あなたのもとへ、あなたのいもより、
かしこみもうすこと。

1/14/2025, 10:49:21 PM

甘だるい香りが鼻腔をくすぐる。
手元のガラス瓶の中に溜められた、この溶解液の匂いだ。

スポイトで、そっと一雫吸い上げて、落とす。
落とした先に転がっているものが、じゅわじゅわと泡を立てながら、溶けて腐り、ゆっくりゆっくり液体になり、気化していく。

肉の溶ける甘だるい匂いがぶわっと広がる。

ぐらり、と四方の壁が揺らぐように動く。
真っ白な壁。
真っ白な天井。
真っ白な床。
扉すらないこの部屋は生きている。

私はそっとガラス瓶にスポイトを入れ、またそっと、溶解液を一滴、吸い上げる。
そして、足元に置いている死体に、そっと垂らす。

じゅわじゅわと泡が上がる。
骨と、肉が混じり合って、じゅわじゅわ溶けてゆく。

この部屋は生きている。
この部屋自体が、大きく、悍ましい化け物なのだ。

しかし、この化け物は何もしない。
何もできない。
ただ、何もない、小さな一部屋の真っ白な部屋として、この生き物はそっと、ひっそり生きているのだ。

そして、私はそれが生きる手伝いをしている。

この部屋は、私がいるこの部屋の生き物は、捕食機能と消化器官を持てなかった個体なのだ。
だからこの部屋には、扉も窓も存在しない。
…本当なら、人を捕食するために、この化け物には扉が存在するはずなのだ。

私がこの個体に出会ったのはいつのことだったか、覚えていない。
この部屋の化け物の中に入ったが最後、生きとし生けるものはみんな記憶が曖昧になってしまうのだ。

しかし、私はずっと何故だか、この化け物に同情的だった。
放っておけないのだ。何故か。
私は、この部屋が、ただひっそりと、そっと生きているこの化け物が何故だか、とても好きだった。

だから、化け物の希望にしたがって、化け物のために人の死体を運び込んで、溶解液で溶かしてやっている。

部屋が、ぐらり、ぐらりと揺れる。
喜んでいるのだ。
それで私は、この化け物が愛おしくなる。

喋れず、扉などを仕掛けて能動的に生きていくこともできず、ただ、私を待つこの化け物が、私はたまらなく愛おしくて、どうしても好きなのだった。

だから、私は今日も、ありったけの愛おしさを込めて、そっと溶解液を垂らす。
真っ白な部屋の、真っ白な化け物に。
そっと、ひっそり、自分の意思すら伝えられない、哀れな生き方をしているこの生き物に。

私はそっと食べ物を運び込み、そっと溶解液を垂らす。
そっと、そっと。
この生き物を壊さないように。
この生き物を生かすために。

私は今日も、溶解液と愛を垂らす。
そっと生きている部屋に。
そうっと。

1/13/2025, 2:32:39 PM

雨が上がった時に出る、虹の麓には宝物があるらしい。
虹の根元には、幸せという宝物があるらしい。

…虹がなんなのかは分からないけど。

僕は今日も空を見上げている。
埃がうっすら窓枠に溜まった、ガラスが白く曇った、はめ殺しの、僕たちの目線よりもいくらか高い窓から、空を見上げている。

重たい雲が、窓の外の空を覆っている。
僕の背よりも、大人の背よりも、この建物よりも、うんと高い、高い、空の上で、雲はずどんと重く垂れている。

ランプを置いて、読みかけの本を閉じる。
雨の音が、鬱々と、建物の外壁に打ち付けている。
隙間から雨の冷たさが、空気になって染み込んでくる。

肌寒くて、僕は膝を抱える。
ふわっと、白く細やかな埃が舞う。

この建物に閉じ込められてから、どのくらい立つだろう。
顔のない大人ばかりのこの建物に囚われて、どのくらいが。

町を外れたのは、仕方がないことだった。
噴火に巻き込まれて、お父さんとお母さんが死んで、逃げた先には人買いがいて、必死に逃げているうちに、いつの間にか、人里外れたこんな森にいた。

町を外れるのは危険なこと。
小さい頃、お父さんとお母さんに教わった。
この世界は、はるか昔の科魔戦争の名残で、魔障に侵されている。だから、人里外れた魔障の濃い地域に入れば、化け物になってしまう。
そんな話を、僕たちは当たり前に聞かされて育った。
だから、こんなことがなければ、僕は一生こんなところには来なかったはずだった。

町の外は、僕たち町の子にとって、そしてこの世界を生きる人間にとって、まだ見ぬ世界だった。

僕は、まだ見ぬ世界を彷徨った。
何も分からなかった。怖かった。
いつの間にか一緒にいた、年下の少女と手を繋いで、僕たちは見知らぬ森を歩き回って、そして。

顔のない、ひょろひょろと背の高い大人たちに見つかった。

顔のない大人たちは、僕たちに優しかった。
町から逃げてきた僕をこの建物に迎え入れてくれて、温かいご飯をくれて、服やおもちゃや本を用意してくれて…。

顔のない大人は、町の大人と変わらずに、僕を愛してくれた。
安心をくれて、いろんなことを教えてくれた。
お父さんやお母さんのように。
今まで見てきた世界のことも。まだ見ぬ景色のことも。

虹について教えてくれたのも、顔のない大人たちだった。

顔のない大人たちは、僕たちに自由に、子どもらしく生活させてくれた。
ただ、この建物の外へは絶対に、僕たちを出さないようにしていた。

確かにこの森では、いつまでも紫の雲が重苦しく垂れて、細くて冷たい雨がずっと降り続けていた。

それなのに。
それなのに、顔のない大人たちが語る、外の話はどれも楽しそうで、美しそうで、僕たちはまだ見ぬ世界に憧れた。

僕たちがまだ見ぬ世界に憧れてはしゃぐと、顔のない大人たちは、嬉しそうにいろいろ話してくれた。
だから僕は今も、こうして大人たちにねだった、外の話の本を読んでいる。
まだ見ぬ景色に想いを馳せて。
…外の話を教えてくれる時に、大人が少し痛そうに見えるのを、見て見ぬふりをしながら。

僕は虹を見たい。
虹の麓に行きたい。
そして虹の麓で、顔のない大人たちの、一緒に笑ってくれるあの女の子の、僕の、みんなの幸せを見つけたかった。

僕は、まだ見ぬ景色に憧れ続けている。
この古ぼけた、寒い雨の中で。

雨はまだ降り続いている。
冷たい風が、染み込んでいる。

僕は立ち上がる。
まだ見ぬ景色について書かれた本を持ち上げて。

窓の外ではまだ、紫色の雲が、空に重たそうに垂れていた。

1/12/2025, 3:15:09 PM

「夢なんて、嘘なんだ…」
今にも泣き出しそうに俯いた少年が、そう言った。

少年の言葉の前には、旅芸人が座っていた。
陽気なぴかぴかの原色に彩られた服を着て、豪奢で変わった帽子をかむった旅芸人は、細高いその身長も相まって、この村の日常の景色の中では、一際目立って見えた。

この旅芸人は、夢を売りにきた、との口上と共にやってきて、もう二週間ほどこの村の人々を楽しませてきたのだった。

少年は、着古した制服を纏い、爪先の削れた年季の入った靴をじっと見つめて、言葉を吐き出した。
旅芸人の方は見れなかった。

旅芸人は黙って、少年を見つめた。

「夢なんて、嘘なんだ!夢なんてないって気づけないと大人になれないんだ!夢は嘘、夢は見れないんだって気づくことなんだって!夢を忘れることなんだって!大人になるってことは、サンタクロースがいないって、空は飛べないって、手品にタネがあるって信じることだって、言ったんだ、アイツも、あの子も!みんなも!」
顔を上げて、少年はしゃくりあげながらそう言い放った。

旅芸人は、この少年を知っていた。
この村で何か出し物をする時、必ず一番前で、目をキラキラさせながら、こちらを見ていた顔だった。

それで旅芸人は、少年の身に起きたこと、少年が自分に言いたいことを悟った。

旅芸人は、どこからともなくハンカチを引っ張り出して、少年に差し出した。
そして肩を怒らせた少年をそっと促して縁石に座らせ、自分もその横に座った。

ハンカチを握りしめた少年が少しずつ落ち着く様子を見守りながら、旅芸人はおもむろに口を開き、ゆっくりと話し始めた。

「…大人になるっていうことは、夢を見なくなることじゃない。大人だって、物語に心を躍らせるし、本を読むし、僕の見せる夢を見にくるだろう。大人だって夢を見る。夢を信じている」

「けれどね、大人は夢を見ているだけではいられない。空を飛ぶには、何がいるのか考える。サンタクロースが現実になるためにはどうすればいいか、考える。自分の手で作り出せる魔法を考える。…そういうことが出来るのが大人だ」

「大人になるってことは、夢を嘘だと思ってつまらなくなることじゃない。夢を信じるだけのゲストから、夢を信じさせるオーナーになるってことなんだよ」

旅芸人はおもむろに立ち上がり、空に手を伸ばす。
飛んできた風を掴むように、手を動かして、その手を少年の前でゆっくりと開く。

そこには白く輝くコバルト銀貨が、一枚握られていた。

「大人になるっていうことは、こんな風に、人に夢を見せる側になるってことなんだ」

泣くのをやめて、目を丸くして銀貨を見つめる少年に、旅芸人は優しく微笑んだ。

「これは君にあげよう。なんたって君は、夢を信じるだけの子どもでもなく、一緒に夢を作り出す大人でもない。君はこれから、現実を駆使して誰かに夢を見せるような大人になれるんだ。だからそれは、その将来のための、僕のささやかな投資さ」

少年が、恐る恐る銀貨をつまみ上げるのを見届けてから、旅芸人は柔らかく笑って、少年の頭を優しく撫でた。

「それじゃあね。…周りの子の夢も、君の夢も覚めてしまったかもしれない。でも、君たちが見ていたあの夢の続きはきっと見れるよ。君たちが、君が、大人になって作り出すんだ。それは僕の仕事じゃなくて、君の仕事さ」

旅芸人は身を翻し、少年に背を向けた。
「君に銀貨を渡せて良かった。これが、ここでの僕の目的だったからね。じゃあね」
「あの夢の続きを、またいつか!」

そういうと旅芸人はマントを翻した。
あっという間に、旅芸人は遠く、村の門から、街道へ出ていくのが見えた。

少年は、ゆっくりと銀貨を握った。
さっきまで感じていた、大人になることへの怖さも、悲しさも、絶望も、苦しみも消えていた。
その代わりに、ほのかにあたたかい、あの夢だけが、胸の奥に残っていた。

「あの夢の続きを」
少年は、銀貨を大切に胸に抱いて、一人でつぶやいた。
「あの夢の続きを作るのは、僕なんだ」
銀貨のように冷たくてキラキラとした北風が、村を通り抜けていった。

Next