ママもパパも教育熱心な家だった。
それも当たり前だったかもしれない。
ママは、田舎の封建的な村から自らの頭脳と奨学金で抜け出した才女だったし、パパは、持ち前の頭脳で祖父に実家の医師のレールから抜け出すことを認めさせ、研究職に就いた才覚の持ち主だった。
その経験からか、ママもパパも、そこらの大人の中で一番、勉強の機会と正しい知識を大切にしていた。
それは、我が子の教育方針にも生かされた。
小さい頃から、本も模型も標本もノートも筆記用具も、とにかく勉強に必要なものはなんでも潤沢に買い与えてもらえた。
好奇心そのままに質問をすれば、なんでもあけすけに詳しく教えてもらえた。
僕の育った家はそういう家だった。
おかげで、僕は人生に関しては驚くほど順調に歩みを進め、名だたる名門校に現役で合格したのち、優等生のまま大学院を卒業して、就職した現在も、とある大手企業の研究職のエリートコースを歩んでいる。
僕の両親は立派な親だ。
僕をきちんと育て上げ、自立させ、今では、僕の家からは遠く離れた僕の故郷のあの地で、潤沢な老後資金を使いながら、二人暮らしをバリバリこなし、老後を楽しんでいる。
僕は親に感謝しているし、環境にも、世の中にも、感謝している。
でも、そんな僕にも、両親に見せられない秘密が一つある。
それは、僕の家の押し入れに、そっとしまわれている。
昔、僕がまだ学校にも行っていない、幼稚園で遊戯を楽しんでいた、まだ小さな子どもだった日の、密かな宝物。
あの頃、僕はまだ、現実に対する探究心や好奇心より、空想世界に対する想像力や夢に縋って生きていた。
あの頃の僕にとっては、虫や科学技術や幾何学よりも、絵本の中で動き回る空想の生き物やテレビの中で空を飛び回るドラゴンの方が魅力的だった。
作り物の世界に憧れて、自分だけの世界を頭の中に作りたがって、でも、その反応を両親は喜びはしない。
そんな幼少期に、大人には内緒で作った宝物が、今もしまいこまれている。
それは、秘密の標本。
あの頃、僕は、親に潤沢に買い与えられた現実世界の動物や生物たちの模型や標本を、一度バラバラにしてから組み合わせて、空想の生き物をこっそり作っていたのだった。
僕の家の押し入れの中で、分類も器官もバラバラに組み立てられた、僕の幼い頃の空想の産物が眠っている。
めちゃくちゃで、出鱈目で、グロテスクで、それでも、いまだに見てしまったらワクワクが止まらない、秘密の標本。
もう今の僕には作れないであろう、そんなもの。
いつから僕は、あれが作れない人間になってしまったのだろうか。
僕は両親に感謝している。
仕事にやりがいもある。
人生に満足感すらある。
今の生活も、環境も、社会にさえ、僕は感謝している。
それでも、僕の押し入れには、あの秘密の標本が眠っている。
名残惜しげに、何かの心残りかのように。
きっと僕には捨てられないだろう。
これからもずっとあるだろう。
僕の押し入れの中には、秘密の標本が眠っている。
出鱈目で、めちゃくちゃで、それでいて心を惑わせる、唯一の標本が。
冬はつとめて。
火を焚いた跡はなんだか寂しい。
凍える朝の空気の中で、黒々と焼け残った炭の上を、白い粉っぽい灰がばらばらと滑っている。
窓がうっすら開いていて、それで失敗を知った。
暴力的な眠気から覚めて、ぼんやりと痛い頭を抱えて、それから沈黙している七輪を眺める。
空気はしんと冷えていて、すっかり冬の香りが感じられる、凍える朝だということに、今更気づいた。
外は薄紫の静かな早朝を迎えている。
小鳥が何羽か囀っている。
ここに辿り着いたのは、昨日の深夜だった。
驚くほどうまくいかなかった高速の乗り換えも、途中のホームセンターや薬局ですんなりできなかった買い物も、でこぼこと狭くて、ガードレールのない高ストレスの山道も、面白いくらいにうまくいかない自分の人生の象徴のような気がして、昨日に限って言えば、全く気にならなかった。
なんてことはないつまらない人生だった。
よくある、両親の離婚から人生が暗転して、ちょっと頑張ってみたことがちょっとした不運でポシャって、それで根性のない私は嫌になって、何もかも中途半端にうまくいかなくて、そのあまりのうまくいかなさに、嫌気がさしたのだった。
それで昨日、ふと思いついて家を出て、地図帳で見て、なんとなく良さそうな写真の場所の山へ、車を走らせて、そうして昨夜、七輪を組み立てて、火をつけて、眠りについたのだった。
そして失敗した。
失敗して、凍える朝に目が覚めた時、頭に真っ先に浮かんだのは、なぜだか遠い昔に学校でやった、国語だかなんだかの授業で習った古文の一節だった。
冬はつとめて。
昨夜のような夜をもう一度過ごす気は起きなくて、残った炭と灰と七輪をまとめてゴミ袋に放り込み、鈍い身体を伸ばしてから、車のキーを回す。
静寂の中、駆動音がぽつんと響き、車内時計が時間を表示する。
それで、今が正真正銘の早朝だと知る。
僅かに開いた窓から、凍える朝がゆるやかに潜り込んでくる。
朝の冷たさが、肌に優しい。
冬はつとめて。
窓を閉めて、ハンドルを握る。
鳥のご機嫌な囀りが、聞こえてくる。
光だけじゃ眩しすぎて影絵
太陽は影も作ると君は言い
横顔は陰影があるから美しい
影よりも光に誘われる初冬
そして、猫は九回死に、犬は五回生きる。
なぜそうならねばならなかったかは、誰も知らない。
知っているものがいるとしたら、ただ1匹、蜃気楼かガラス細工のような町の大通りを駆け抜けていった、あの目の赤いネズミだけだ。
大通りは曲がりくねり、大きくうねって波打っている。
のっぺりとした町の建物は、遠近法で小さかったり、大きかったりして見える。
空は薄く靄がかかったようにくすんでいて、輪郭すら怪しい。
耳をつんざくような静けさが、小さな町を包んでいる。
何もいないけど、何かが生活していると確信する。
冷たい張り詰めた朝の空気が、蔓延している。
そして、猫は九回死に、犬は五回生きる。
そして、私はこの超現実に立ち尽くし、ネズミは1匹逃げていく。
道はうねり、町はくすんでいる。
そして、静けさが小さな町を包んでいる。
食べちゃいたいほど愛してる。
tinyは可愛いほどちっちゃな、ちっぽけな、という意味らしい。
赤ちゃんとか、動物とか、そういうものに使う「ちっちゃい」みたいなニュアンスの言葉。
ならtiny loveというのは、小さく幼くてちっぽけな、可愛いものへの愛のことだと思うのだ。
そう。“食べちゃいたいほど愛してる。”
丸くて、柔らかくて、ちょこちょこと動いている。
口に入れたら一口で食べてしまえそうな小ささの生物が2匹。
これが弊社で開発された人工食糧生物の第一世代だ。
食糧問題は、年々深刻化している。
医学や薬学の発達による人口増加、気候変動や太陽の変化によってもたらされた気温や植生の変化などにより、この世界の食糧危機は、今や最優先事項として協議されるほどになっている。
そんな人類の存亡がかかった危機的状況を打破するために研究され始めたのが、人工食糧という可能性だ。
できるだけ少ない資源、そしてできるだけ複雑すぎない条件下で、効率良く増産できる食糧を、これが今、世の中の人類全てが欲している最大ニーズであり、関心ごとだった。
生物学と工学、そして人の成長を長年研究し、商品を生み出してきた機関を持つ弊社が、このニーズを逃すわけにはいかなかった。
と、いうわけで、うちでは大々的に、部門ごとで競い合いながら、人工食糧の開発が進んでいた。
そんな中、我々、ゲノム生物部が作り出したのが、この生き物だった。
真っ白で、ふかふか柔らかく、まんまるで、一口サイズのお団子みたいにちっちゃくて、ちょこちょろ動き回る。
食べちゃいたいくらい愛らしい、食欲を刺激するほど可愛らしい生物。
それが、我々の作り出した人工食糧生物、tiny loveだ。
開発はすでに佳境だ。
味も食べやすさも確認済み。tiny loveはとても美味しい。
あとは、このtiny loveの繁殖を試み、問題がなければ、tiny loveは家畜に変わる新たな人工食糧生物として、世界中に広がっていくだろう。
今、こうして私の前を歩き回っている、食べちゃいたいほど愛らしい生物は、tiny loveのアダムとイブなのだ。
時々、考えることがある。
食べられるために生まれる、食べられるために生きるというのはどういう気持ちだろう、と。
しかし、そんな哲学的かつ倫理的な抵抗を持ってしても、やはりtiny loveは食べちゃいたいほど愛らしい。
私はこの生物を愛している。
食べちゃいたいほど。
ちょこちょこと動き回る2匹を掬いあげる。
食欲を抑え、2匹ともを繁殖用ケージへ入れる。
私はきっと、愛情を持って、2匹を育てるだろう。
食べちゃいたいほどに愛しながら。
ケージの中の床材がかさり、と音を立てる。
食べちゃいたいほど愛らしい生物が、そこにはいる。