薄墨

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11/27/2025, 10:33:15 PM

ふるえる喉に、新鮮な外気をめいっぱい送り込む。
自分の体温がほのかに移った二酸化炭素が、鼻からすうっと漏れ出る。

深呼吸をしても、同居人へのモヤモヤは、一つもマシにならなかった。
あの医者、ヤブなんじゃないの、そんなことを考えてしまい、無意識のまま、また深い息が、体から滑り落ちていく。

同居人が心の病と診断されたのは、もう半年も前のことだった。
頑張りすぎによる適応障害を診断され、兎にも角にも休むことを義務付けられた同居人は、それからずっと家にいる。
狭すぎるシェアハウスの万年床で、同居人は今日も疲れを癒すため昼寝をしている。

彼女が病気になってから、私にはストレスによるニキビやヘルペスが増えた。
理由は明白だ。
私と同居人は住まいを同じくしているだけで、意見がいつでも同じになるとは限らない。
だから今までは、各々に対するモヤモヤや意見の違いや認識のズレは、話し合いや時には口喧嘩をしながら、擦り合わせてここまで来たのだった。

しかし、同居人が病人となってから、そんな口喧嘩はできなくなった。
ちょっとでも同居人の人間性について触れようなら、彼女はひどく傷ついたような顔をして、(そしておそらく傷ついて)それから極端なマイナス思考でいじけて症状を悪化させる。
彼女の言動に、ちょっとでも批判的な態度を取れば、病人の敏感な精神は即座にそれを感じ取り、病気を盾に、まともに取り扱ってもらえない。
そして、病人を打ちのめした、という現実が、私の心を暗くする。

私はすっかりうんざりしていた。
大好きで良き友人だったはずの同居人は、なるだけ関わりたくない存在に変わり果ててしまった。
SNSでよく居る、精神的にしんどいのか、投稿全てが卑屈と行き過ぎた低い自己評価と愚痴で塗れた、近寄りがたい雰囲気を出している変わり者と変わらない言動を四六時中取り続け、そうして、私が家事だの仕事だのバタバタしている日中に布団にこもってしまう。

どうしたらいいか、分からなかった。
彼女の主治医に聞いた。
「ご友人さんも心の深呼吸をするべきです。モヤモヤやイライラを感じた際は一度立ち止まって深呼吸してみなさい」
顔も上げずに彼は言った。

私だって疲れているのに、世の人は病名がついた彼女ばかりを心配する。
私だってしんどいのに、医者も看護師も事情を知る友人さえ、私の方に頑張れと言う。
私だってどうしたらいいか分からないのに、彼女の指針で、光で、良き友人であれとみんな言う。
私もそうありたいけど、そうあれるほど私の器は大きくない

医者も、職場やクリニックのセルフチェックシートも、インプレッション数目当ての透けた、ファッションメンヘラ御用達の信憑性のかけらもない自己診断シートでさえ、私に盾となる病名を与えてくれることはなかった。

それとも、私が狭量で、どうしようもない冷血女で、心の深呼吸すらできないサイコパスの短気であるのだろうか。
私には分からない。
もうダメかもしれなかった。

布団にこもって、同居人は自分の心を労っている。
狭い酸素の薄い空間で、彼女の心はめいっぱい深呼吸をし、新鮮な酸素を取り込んでいるのだろうか。

私にはもう、何も分からなかった。

11/26/2025, 9:58:31 PM

人間の私たちが預かり知らぬところ、遠い遠いどこかに、五色の山と呼ばれる山々がありました。
そこでは、不思議な力を授かった生き物や妖怪たちが、それぞれの役目をこなしながら、のんびり生きているのでした。

そんな山々の一つに、大きな女郎蜘蛛が住んでいました。
女郎蜘蛛は、来る日も来る日も、洞窟の中の巣の真ん中に座って、糸を紡いでいました。
それが女郎蜘蛛の役目でした。
ただの糸紡ぎではありません。
この女郎蜘蛛が紡ぐ糸は、時を繋ぐ糸でした。

ある日、女郎蜘蛛は時を繋ぐ糸を紡ぎました。
それは銀に輝く、細いけど確かにある頑丈な糸でした。
その糸は見えなくなって、とあるくたびれた女性の指に巻きつきました。
その日、その女性は、幼い頃に書いた将来の夢の作文を発見しました。
そして、自分は夢を叶えられなかったけれど、幼い頃になりたかった、誰かを助けられる大人にはなれていることに気がつきました。

ある日、女郎蜘蛛は時を繋ぐ糸を紡ぎました。
それは白く太いけれど、そのうち折れてしまいそうなほどにしなやかに撓みました。
その糸は見えなくなって、とある死を間近にした父親の指に巻きつきました。
その日、その父親は、寝たきりのベッドの上で夢の中で未来へ行きました。
そして、自分の愛する娘が大勢の人に祝福されて、素敵な人と素敵な家族になる未来を見ました。

ある日、女郎蜘蛛は時を紡ぐ糸を紡ぎました。
それはあまりに細くて弱々しいけれど、とても長い糸でした。
その糸は見えなくなって、都会から田舎に越してきて暇をしている子どもの指に巻きつきました。
その日、その子どもは、どういうわけか、昔の遊びや田舎の遊びの楽しさに気づきました。
未来のためにしたいことやこんな場所でもできそうなことを思いつきました。
そこで、近所の子と仲良くなって、色々なことがしたくなって、外へ遊びに行きました。

こうして女郎蜘蛛は、人間の住む世界からは遠い遠い五色の山の奥で、時を繋ぐ糸を紡いでいます。
たくさんの不思議な偶然を作り出す糸を、今日も紡いでいます。
そして、その糸は今日もきっと、誰かの指に巻きついて、素敵な不思議を引き起こすのでした。

11/25/2025, 1:56:16 PM

銀杏を 踏んだ靴すら 愛おしい
 幼い君が 行く落ち葉の道

11/24/2025, 2:58:44 PM

物置に 閉じ込められて 考えた
 君が隠した 鍵の居所

11/24/2025, 3:59:07 AM

手放した 時間は今も 宙の上
 宇宙をきっと 漂っている

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