彼女が振り向いて顔を近づける。
絹のような黒髪がさらりとしなる。
「ねえ、今日一緒にかえろ!」
あ、これ夢だな。
彼女はいわゆる学年のアイドルで人気者だ。
こんな冴えない俺みたいなやつに話しかけるわけないし、ましてや一緒に帰るだなんてカップルみたいなことを提案してくるわけがない。その証拠に彼女以外の景色が水たまりに張った油のようにぼやけている。
あー現実だったら嬉しかったのに。
「おい、寝てるやつ誰だ。」
マッハで瞼を開ける。教壇の上からまっすぐ俺を見つめる先生。背筋の毛が逆立つ。
教室の全員に注目されて何も言えなくなってしまった俺を察したのかすぐに授業を再開させた。
前の席に座る彼女は身動き一つせずに下を向いている。今更になって顔が熱くなる。怒られたのも、授業中に寝ていたのも、寝てたのがバレたのも全部ダサくて恥ずかしい。
存在を消したくて必死に下を向いた。
チャイムが鳴り1日が終わる。
かえろー、部活行くぞー、どっか寄って帰る?みんなそれぞれの放課後に走り出す。俺は彼女をチラ見しながらカバンを取る。急に廊下が騒がしくなったと思いきや、違う色の学年バッチをつけた背の高い男が教室を覗き込んだ。
「あ、いた。帰るぞー。」
男は爽やかに笑った。あれは噂に聞いたことがあるバスケ部のエース。あんなやつと付き合っているやつがうちのクラスにいるのか。
「先輩!」
目の前の彼女が飛び跳ねるように席を立つ。
おい、マジかよ。
クラスの女子がキャーッと騒ぎ立て、男が口笛を吹いて囃し立てる。
あー夢だったらよかったのに。
「久しぶりに来たね〜。」
昼のファミレスに溢れる幸せな空気に負けないように言った。
私たちはまだ幸せですよ、と周りにも自分にも言い聞かせるかのように。
「何にするー?やっぱりハンバーグ?好きだもんねー。この前食べたさあ、ハンバーグめっちゃ美味しかったよね。この前って言っても3ヶ月くらい前だけど。」
1秒でも今を続けたくて、ベラベラ喋り続ける。
目は合わせない。冷たい視線を感じるからだ。
その視線を遮りたくて、プラスチックのバカでかいメニュー表を顔の前に掲げる。
「私このパスタにしようかな。」「なあ、」
目が合ってしまった。空気を切り裂くように呼び鈴を鳴らす。
まださよならなんて言わないで。
※他アプリで書いていた話を編集しました
人魚の夢は黒く青い。
ぷくぷくと泡を吐き出しながら寝息を立てる。
光が水底でゆらゆらと舞う。
いつか見かけた目に刺さるような色の小さい葉。
あの日は海底の洞窟まで光が強く届き、
黒と青しか存在しなかった世界が見たことない色で輝いた。そのとき頭上でゆらめく葉に気付いたのだ。
地上はこんなに美しい色で溢れているのかしら。
持ち帰ったひとひらは暗い水底だと色褪せて見えた。
人魚は強い光に憧れた。眠りから覚め瞼を上げる。
暗い暗い水底で弱々しくゆれる光ではなく、水面に上がったときに感じた肌を刺すような痛い光。
ひれを小刻みに震わせると水面に向かった。
水と空気の境界を突き破る。空気がずっしりとのしかかり、冬の白みがかった光が人魚をつつむ。
遠い景色の向こうに影が見える。
きっとあそこに行ったら私の見たい世界があるのだろう。
でも泳いで行く勇気がなく、光と闇の境界でぷかりぷかりと浮かぶばかり。
今日は全国的に晴れるでしょう。
テレビの明るい声を聞きながら窓の外に目をやる。
俺の地域は日本じゃないのか、厚い雲が空を覆っている。
「雨が降りそうだな。傘を持って行った方が良さそうだ。」
台所から聞こえてくる食器の音に独り言っぽく言ってみた。
もちろん返事が返ってくるわけがない。どうせ独り言のつもりだったので問題ない、と言い聞かせる。
結婚して27年。結婚生活は上手くいっている方だと思っていた。2人の子供を育てあげ、定年まであと少し。なにも変わらない穏やかな生活を過ごすのみだと思っていた。
いつからか妻の様子が変わった。ずっと不機嫌で何を言っても返事がない。まるで俺が見えないかのように振る舞う。どうせ更年期とかだろう、ホルモン的なことだろうと思って放っておいたが口をきかなくなってもうすぐ1年になる。27年も連れ添ったはずなのに何を考えているのか全く分からなくなった。
なんとなく押し寄せる不安があるが、妻のことで心が掻き乱されるのも正直煩わしい。モヤモヤを振り切るかのように傘をブンブン振って歩く。
目の前で茶色い髪の毛が揺れる。
お、あれは最近入社した社員だ。20代だと言っていたが愛嬌があって上層部に気に入られていた。
「おはよう。」
肩を叩くと少し驚いた様子で振り返る。
「課長。おはようございます。」
晴れやかな笑顔を見せてくれる。
「雨が降ったら服が濡れて気持ち悪いね。」
若い女性との会話なんて久しぶりすぎて何を話せばいいか分からない。少し困った様子で
「そうですねえ。でも今日は晴れるらしいので、大丈夫ですよ。」
彼女の耳が少し赤くなる。何を考えているのか分かりやすい。
隣にいても全く何を考えているか分からない妻とは違う。きっと彼女とはもともと心の距離が近いのだ。
「何か会社で困ったことはないか?何かあれば相談に乗るよ。今度飯でもどうだ?」
妹の顔が歪む。口を大きく開けてツンザクような泣き声をあげる。
「いいじゃん!ちょっとくらい!なんでお姉ちゃんばっかり…」
丸い頬に涙が伝う。制服の袖で拭う。
なんでお前が泣くんだよ。
「どうしたの!」
すぐに母親が部屋に入ってくる。
妹によく似たくるくるの髪を振り乱しながら。
私をちらりと見てからすぐに妹に駆け寄る。
「中学生にもなって泣かないの。何があったの?」
小さい子をあやすように背中をさすりながら優しく声をかける。妹は勢いを増してしゃくりあげながら泣き出す。
「お姉ちゃんのワンピースを借りようと思っただけなの。明日の修学旅行の出し物で衣装として使いたくて。でも全然貸してくれないの。洋服いっぱい持ってるくせに。」
母親は少し気まずそうにこちらを見る。
「ねえ、少しくらい貸してあげることはできないかな?この子もちゃんとも物を大切にするタイプだから。気持ちは分かるけど、やっぱり家族仲良くするためにはそういうことも必要だと思うの…」
何を言ってんだこいつらは。
そもそも私のワンピースじゃない。
「私のママのワンピースだから。」
10年前亡くなったママが私に遺した唯一のもの。
衣装?ふざけんな。家族仲良く?私の家族はママだけだ。
妹の顔が凍りつく。母親は何も聞こえなかったかのように目を逸らし、小さく「行くわよ。」と呟いて妹を連れて部屋を出て行った。
ドアが閉まった瞬間、目の前がぼやける。