「優しさ」
優しい人だと思った。
誰にも伝えたことのない、自分ですら気付かなかった寂寥感に寄り添ってくれたから。
誰にも見られていない朝の憂鬱も夜の寂寞もどうして貴方が知っているのだろう。
ああ私はこの言葉が欲しかったんだ、と自分の隅に丸まっていた背中に手を差し伸べることができた。
だから貴方は神様だと思った。
人に寄り添って導いてくれるのは神様しかいないじゃない。
だから貴方がいないこの世は終わりだと思った。
これからどうやって生きていけばいいの。
貴方からもらった言葉を刻み込んでもいつかは摩耗して消えてしまうでしょう。
じゃあ最初から優しくしないでよ。
優しさを知ってしまったから弱くなったのよ。
強い私を返してよ。
「ミッドナイト」
酔っ払いたちの喧騒に背を向けてそっと影に入る。
酔っ払いたちの方がまだ安全なんじゃないかと思うよな怪しい男たちと目線を合わせないように足早に通り過ぎると怪しい路地に似つかわしくないおしゃれな木のドアが見えてくる。ドアを開けるとまた違う意味で怪しくピンクでライトアップされた水槽が出迎えてくれる。
「こんばんは」
少しレトロな風貌をしたバーテンダーが優しく声をかけてくれる。
そこで私はやっとこわばった表情を緩めるのだ。
店内は人一人がやっと通れるような隙間を残してカウンターが伸びている。
少し昭和の雰囲気が漂っているのは壁の色褪せたポスターたちと少しチープな明かりのせいだろう。
以前連れてきた友人は「カラオケの背景でよく見るバー」と言っていたっけ。
店内は私一人だけのようだ。この贅沢な空間を独り占めできるなんて今日はついてる。まあ今日もあと1時間で終わるけれど。
バーテンダーは何も言わずにカクテルを振っている。
私が頼むのはいつも決まって同じだからだ。
「どうぞ」
透明な流水紋が入ったコースターにそっと柔らかなオレンジ色のカクテルが置かれた。
チープなライトが琥珀色を通して美しく光を散らしている。爽やかな柑橘系の香りが鼻をくすぐって思わず笑みがこぼれてしまった。
「今日は何かいいことがあったんですか?」
バーテンダーが穏やかな口調で尋ねた。
笑顔の理由があまりにも小さいのでわざわざ伝えるのも恥ずかしい。私は誤魔化すようにふふふと笑みを重ねた。まるで秘密をはぐらかす魔性の女のようになってしまった。
けれどこんな真夜中くらいはいいだろう。
日中は冴えない会社員でもカクテルの前なら魔性の女になれるのだ。
「安心と不安」
基本的に不安を抱えながら生きている。
賞味期限切れてるけどこの納豆まだいけるかな?とか
1ヶ月掃除してないけどまだ大丈夫かな?とか
バイト辞めちゃったけどこれからどう生きていこうとか
まあこれは怠惰で考えなしで行動する自分に対して必然と出てくる不安だが、無意識の不安もある。
漠然とした不安だ。
何に対してでも、何が原因というわけでもないのに焦燥感まで感じるような不安だ。
まるでオールも舵もない簡素なボートに乗せられ、無理やり海に押し出されてしまったかのような不安がいつも心の底に溜まっている。
大切な人がそばにいても、温かい布団に包まれて眠っていても、それは霧のように腹の底を漂う。
そして時折意地悪く囁くのだ。
「その安心はいつまで続くのだろうね」
きっとこの世に生まれて死ぬまで、この霧が晴れることはないのだろう。
じゃあこの不安は命そのものってことなのかもしれない。
「タイムマシーン」
たまにこの人はひょっこり未来にやってきてしまったんだろうか、と思うことがある。
この世にはいろんな人がいるというがコンビニの店員をやっていると身に染みて実感する。
勝手に名札を見て親しげに名前を呼んでくるセクハラジジイ。
「あら、これ孫が好きなキャラクターの。これくれるの?え?お菓子買わないともらえないの?ケチねー」と勝手にキャンペーンの商品を持っていこうとするババア。
なんも聞いてないのにマッチングアプリでどんな子とデートしただの、女優が整形しただの、雑談の話題が終わり散らかしている常連ジジイ。
それが許されてた前時代から間違ってタイムマシーンに乗ってしまったんだろう。前世が虫だった可能性も捨て切れないけれど。
そういう人たちはきちんと元の時代に帰さないといけない。
この時代にそぐわない考えや価値観を持っていては生きていくのが難しい。
これは優しさなのだ。私はジジイをタイムマシーンに乗せて扉を閉めた。
「特別な夜」
あの日、星も降らない、花火も上がらない、なんなら星も見えない、静かで、少し霧がかった夜。
紫色の月光がそっとヴェールを下ろす中、私は初めて空を飛んだ。
いつも閉め切られている窓を少し押したら開いたから。
外の風があまりにも心地よかったから。
いや、それらは単に言い訳で昔を思い出したからというのが一番正しいかもしれない。
久しぶりのアスファルトの感触はやっぱり絨毯とは違って痛くて走るしかないと思った。
鈍った重い体を必死に風に乗せてかつて私の世界だった街を走り抜けた。
首の鈴が私に警告し続けるけれどもう耳に入らなかった。
嗅ぎ慣れたスパイシーな香りがするたびに暖かな絨毯を思い出したけれど、もう足は止まらなかった。
今日だけ、今夜だけ。すぐ帰るから。
月がどれだけ照らしても私の黒い身体は黒いまま。
その優越感がとてつもなく心地よかった。