汀月透子

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10/9/2025, 3:35:20 PM

〈秋恋 ─Autumn Longing─〉

 窓の向こうで、ケヤキ並木が少しずつ色づきはじめていた。
 夏の終わりをまだ引きずりながらも、街の空気にはかすかな冷たさが混じっている。
 アイスラテより、そろそろホットが恋しくなる頃。私たちは四人で、いつものカフェに集まっていた。

「なんか、秋になるとさ、妙に人恋しくならない?」
 最初にそう言ったのは遥香(はるか)。
 柔らかな声と、揺れるピアス。いつも恋の話をしているのに、どこか寂しげに笑っていた。

「わかる。
 夜風が冷たくなると、帰り道で“隣に誰かいたらな”って思うんだよね」
 南月(なつき)がストローをくるくると回しながらつぶやく。
 普段は明るくて、どんな場でも笑いを取る彼女が、今日は少し静かだった。

「でもさ、それって“季節限定の寂しさ”じゃない?」
 晶穂(あきほ)がゆっくりとカップを両手で包む。
 理性的で、いつも落ち着いている彼女の言葉には、少しだけ温度があった。

「そうかも。
 その一瞬の寂しさが、恋の入口になることもあるよね」
 芙優(ふゆ)が微笑む。
 まるで物語の中の一節みたいな言葉を、彼女はいつも自然に口にする。

「夏の恋は燃えるけど、秋の恋は沁みる感じがするなあ」
 遥香が言うと、南月が「名言っぽい」と笑った。
 でもその笑いは、どこか柔らかくて、胸の奥に静かに残った。

「……この前ね、前に付き合ってた人から久しぶりにメールがきたの」
 南月が、少し目線を落として言った。
「“元気?”って、それだけ。
 もう平気なはずだったのに、返信するまでに二時間もかかった」

「返したの?」
 芙優がそっと尋ねる。

「うん、“元気だよ”ってだけ。
 でも、送ったあと泣いちゃった。ちょっとだけ」

 フフ、と南月が笑う。泣いたことさえも、笑って話せるのが彼女らしい。

「秋って、過去がふっと近くに寄ってくる季節だね」
 晶穂の言葉に、みんなが静かに頷いた。
 いつも現実的で恋愛より仕事という彼女は、時折詩人のようなフレーズを口に出す。

 窓の外では、風に乗って一枚の葉がふわりと舞い上がり、落ちていった。

「私ね」
 遥香が小さな声で言った。
「最近、やたらと気になる人がいるの。
 でも上司だし、私のことを部下としか見てないんだろうけど」

「それでもいいじゃない?」
 芙優がやさしく笑った。
「恋って、叶うかどうかより、誰かを想うことで自分が少し優しくなれる気がする」

 ふっと、それぞれが物思いにふけるように押し黙る。
 芙優の言葉は、甘くて、少し苦いココアみたいに胸に残った。

 外に出ると、空気はもうすっかり秋の匂いがした。
 四人で駅まで歩く道。街灯の光がオレンジ色に滲み、足音が柔らかく重なる。

「晶穂も芙優もこのところどうなのよ、浮ついた話は私と遥香だけ?」
 南月は元のテンションに戻って言う。

「夏が異常に暑すぎたから今は心を休める時よ、秋なんだから」
「そう、もっと寒くなったらね」
 晶穂と芙優が顔を見合わせ笑う。遥香がやれやれと息をつく。
「あっという間に冬になるわよ」
「あ、私温泉行きたい!冬の東北いいよ!」
「じゃあまた集まる?」──

──語る話は尽きないが、秋の夜は更けていく。

 恋をしてもしなくても、人は誰かを想う。季節が巡るように、心も静かに波立つ。
 熱狂的な暑さから解放され、小さな心のささやきに気づく時。それが秋という季節なのかもしれない。

10/8/2025, 4:42:30 PM

〈愛する、それ故に〉

 放課後の教室に、夕陽がゆっくり差し込んでいた。黒板のチョークの跡が光を受けて、かすかに白く浮かんでいる。
 私はノートの上に顔を寄せ、二次関数のグラフを描いていた。

 𝑦=𝑎𝑥²+𝑏𝑥+𝑐

  𝑎が正のときは上に開く放物線。頭では分かってるのに、線を引くたび形が歪んでいく。

「ねぇ、聞いてよ」
 前の席から、沙月(さつき)の声がした。机にあごを乗せて、ため息まじりに。

「今日、S君と図書室で一緒になったの」
「へぇ」
 私はグラフの軸を書きながら、相づちを打つ。

「同じ時間に本返しに行っただけなんだけどさ。
 隣に立ったら、なんかふるえちゃって。何も話せなかった……」
「そっか」

 放物線の頂点の座標を求めようとして、xの符号を間違える。うまくいかない。

「好きってさ、なんでこんなに上手くいかないんだろ。話したいのに、話せない。近づきたいのに、逃げちゃう」

 その言葉に、私はシャーペンを止めた。
 窓の外では、野球部の声が遠くで響いている。

「……それ、放物線みたいだね」
「は?」と沙月が顔を上げる。

「上に行こうとしても、いちばん高いとこまで行ったら、また下がっちゃう。
 でも、それでもちゃんと“形”はあるんだよ。どんなに上がっても下がっても、ちゃんと自分の道を描いてる」

 沙月はぽかんとして、それから小さく笑った。
「なにそれ、数学で慰めるつもり?」
「うん、まぁ、そんな感じ」
 私も笑った。

「放物線ってさ、左右対称なんだよ。どっちかが一方的に伸びてるわけじゃない。
 だから、いつか相手の線と交わるといいね」

 沙月はノートをのぞきこんで、私の描いたゆがんだ放物線を見た。

「……交わるかな」
「さぁ。
 でも、“好き”って気持ちがあるなら、その線はちゃんと伸びてるよ」

 少しの沈黙のあと、沙月がぽつりと言った。

「ねぇ、私さ、○○高校受けようと思ってるんだ」
「えっ、マジで? S君、○高って言ってたよね」
 驚きながらも、どこか納得した。

「うん。受かるかどうかも分かんないけど……
 それでも頑張りたいって思っちゃって。
 ……バカ?」
「バカじゃないよ」

 私は笑って言った。

「落ちるかもしれないけど、ちゃんと上を向いてる放物線じゃん」
「落ちるって言うな!!!」

 沙月は少し照れたように笑い、頬杖をついた。

「じゃあ、あんたも一緒にがんばってよ。
 どうせ同じ受験生なんだから」
「もちろん」

 私はノートを閉じて、まっすぐ前を見た。
 黒板の上の夕陽がだんだん赤く染まっていく。

 愛する、それ故に。気分が上がったり、下がったり、迷ったり。
 でも、そうやって沙月が描く線の先に、きっと沙月の未来がある。

「ねぇ、次の模試、一緒に受けよっか」
「受けよ受けよ、そしてまず数学教えて!」

 そう言うと、沙月が笑う。
 放物線の線が、少しだけ重なった気がした。

10/7/2025, 2:14:25 PM

〈静寂の中心で〉

 またスマホが震えた。母からのLINEだ。

「○○商事の説明会、申し込んだ?」

 私は長い長いため息をつく。

 別の通知を見て、スマホの画面を何度もスクロールする。
 就職サイトのエントリー一覧。企業のロゴが並ぶその画面は、どれも同じに見えた。

「どこ受けたの?」
「内定出た?」

 友達の声が、廊下の向こうから笑いと一緒に流れてくる。ゼミのグループチャットには、面接の進捗や企業研究の情報が飛び交っていた。
 返信する指が止まる。何を言えばいいのか分からない。

 母からのLINEには「○○商事、近所の子が入ったらしいよ。安定してていい会社みたい」と書かれていた。
 安定。いい会社。働きやすい。
 言葉だけが、耳の奥で何度も反響して、だんだん意味を失っていく。
 私は画面を伏せて、カフェのテーブルに突っ伏した。

 就活が本格化してから、世界がやかましくなった。
 親は「安定した大企業に」と言い、ゼミの教授は「君なら研究職が向いている」と諭す。
 友達は内定自慢とも愚痴ともつかない話を延々と続け、就活サイトは毎日何十通ものメールで「あなたにぴったりの企業」を押し付けてくる。

──私は何がしたいんだろう。

 四年間、勉強して、サークルに行って、バイトして、それなりに楽しかった。でも、これからのことを考えると、頭の中がざわつく。
 どこに行けば正解なのか。どの会社が「私らしい」のか。
 そんなこと、誰も教えてくれない。

 リクルートスーツを着て鏡を見るたび、そこに映るのは私じゃない誰かのように思える。
 面接で話す言葉も、エントリーシートに書く文章も、すべて「私らしい私」を演じているだけだ。
 本当の私は、その背後でずっと黙っている。

「まだ決まらないの?」
「みんな動いてるよ」
「焦らなくて大丈夫?」

 善意の声は、どれも雑音にしか聞こえない。
 就活はゴールじゃない。スタートでもない。ただの通過点だ。なのに、どうしてこんなに周りの声ばかりが大きく響くんだろう。
 耳をふさぎたい……見えない、でもとてつもない圧に押しつぶされそうになり、図書館に逃げ込んだ。

 最上階の、誰も来ない古文書のコーナー。
 静かだ。でも完全な静寂じゃない。階下の人の気配、密かな足音。
 音があるのに、心が静まっていく。

──ああ、私、疲れているんだ。

 みんなの声に応えようとして、みんなの期待に沿おうとして、いつの間にか自分の声が聞こえなくなっていた。

 スマホの電源を切った。SNSもメールも、今日は全部無視する。
 静寂の中心に立って、私は目を閉じる。ゆっくり呼吸をする。喧騒を全部置いて、まっさらな場所に戻る。
 ようやく、心の内の小さな声が聞こえてきた。

 就職は何のため?
 お金のため?
 安心のため?
 誰かのため?
 それとも、自分のため?

 メモを取り出し、一つひとつ箇条書きにする。
 書くうちに、胸のざわめきが少しずつ小さくなっていった。
 静寂は、逃げ込む場所じゃなく、立ち止まるための場所なんだ。
 そう気づいた瞬間、少しだけ息がしやすくなった。

 閉館のアナウンスが流れる。私は慌てて荷物をまとめ、館外に出た。
 スマホの電源を入れると、様々な通知が鬼のように流れる。

 世界はまだうるさい。
 でも、私はようやく、静寂の中心で息をした。

10/6/2025, 1:43:33 PM

〈燃える葉〉

 庭のモミジは、燃え上がるほどの赤さではない。
 けれど、朝の光を受けてゆらめくその葉を見ていると、ふいに昔の山道が思い出される。
 息を切らして登った坂道、時折頬をなでてゆく冷えた空気。そして、目の前に広がった燃えるような紅葉の海──あの光景はいまも胸の奥に残っている。

 あれは、結婚するよりずっと前のことだった。
 大学のサークルで知り合った彼と、二人きりで出かけた晩秋の旅。軽い気持ちのつもりだったのに、山に着くころには胸が高鳴っていた。
 見晴らし台の柵にもたれながら、彼は「ほら、すごいだろう」と笑った。
 その笑顔の向こうに、まるで空を焦がすような紅葉が広がっていた。陽に透ける紅葉が風に揺れ、谷を渡るたび、世界が赤く息づくように思えた。

 その時、私はふと思った。
──この人と一緒にいたい、と。
 けれど、その願いは叶うことなく、時の流れに溶けていった。

 やがて私は別の人と結婚し、子どもを育て、夫を見送り、今はこうして一人で暮らしている。
 穏やかな人生だったと思う。けれど、胸の奥に小さな火が灯る。あの紅葉の赤が、忘れたはずの想いを呼び覚ますのだ。

 この秋、町内会で「○○山の紅葉が見頃だ」と聞いた。
 心がざわめいた。行ってみようか──そんな想いが湧き上がった。

 電車を乗り継ぎ、山道を歩く。近年観光地化されて歩きやすくなったと言うが、膝は痛むし息も上がる。それでも足を止められなかった。

 やがて、あの見晴らし台にたどり着いた。
 冬の匂いをまとった風が頬を撫で、眼下に赤や橙の波が広がる。あのときほどの鮮烈さではないけれど、確かにそこにあった。燃えるような葉の群れ。
 赤、橙、金。光に揺らめく無数の葉が、まるで空へ燃え上がっていくようだ。

 彼はいない。けれど、風の中にあの日の笑い声が溶けている気がした。
 私は柵に手を添え、ゆっくりと息を吐いた。

 ──庭のモミジは燃え上がるほどの赤さではない。けれど、私の心のどこかでは、今もあの日の葉が燃え続けている。

 夕暮れが近づく。陽を受けた紅葉が、さらに深く燃え始める。
 私はその光の中で、しばらく目を閉じた。過ぎ去った日々も、今ここにある静けさも、同じように心を温めていく。
 あのときの赤が、心の中でほむらを上げては散って行く。

 ──燃える葉は、散る瞬間まで美しい。
 帰りの道すがら、私はそう思った。

10/5/2025, 12:36:41 PM


〈moonlight〉

 会社の玄関を出たとき、夜の空気が頬を撫でた。昼間の湿った熱気がすっかり消えて、街灯の光が白く滲んでいる。
 ふと空を見上げると、月がまるで雲の間からこちらを覗き込むように浮かんでいた。

 あと一週間で退職する。理由は家庭の事情──母の介護、と言えば誰もが納得した顔をしてくれる。
 けれど、本当のところは、自分の中で何かが静かに終わりを告げたのだと思う。

「今日も遅くなりましたね」

 隣で話しかけてきたのは、上司の瀬尾さん。私より三つ年下で、同じ部署のまとめ役。
 落ち着いた物腰の中に、時々、若さの名残のような真っ直ぐさを見せる人だ。

「残業、すみません。引き継ぎが思ったより手間取って」
「いいえ。僕も勉強になりますから」

 そう言って彼は笑った。月明かりに照らされたその横顔が、思っていたより穏やかで、胸の奥に少し温かいものが灯った。

 駅へ向かう道を並んで歩く。ビルの谷間から洩れる光と、月の光が混ざり合って、アスファルトに淡い影を落としている。
 会社では上司と部下でも、こうして歩くと、不思議と同じ時間を歩いてきた仲間のように思えた。

「退職理由、誰にも話してなかったんですね」
「ええ。なんだか、まだ口にするのが怖くて」
「そうですよね。
 僕も、前の部署を異動するとき、何かを失う気がして言えなかったです」

 信号が赤に変わり、横断歩道の手前で立ち止まった。
 見上げると、夜空の真ん中に丸い月が浮かんでいる。街の灯よりも少しだけ強く、でも刺すようではない光。

「……月が、綺麗ですね」

 彼が小さくつぶやいた。

「ええ。
 なんだか、今日が終わるのが惜しくなりますね」

 青に変わる信号を待ちながら、ふたりでしばらく空を見上げた。
 月の光は、すべてをやわらかく包み込む。過ぎた日々の苦さも、思い残した気持ちも、ぼんやりと溶かしていくように。

「……瀬尾さん」
「はい?」
「この仕事、嫌いじゃなかったです」
「知ってます」

 短い返事。けれど、その一言が、私には十分だった。

 駅の入口で足を止める。終電の時刻が近い。

「じゃあ、ここで」
「お疲れさまでした。また明日」

 そう言って頭を下げると、彼は小さくうなずいた。

 改札を抜けて振り返ると、彼はまだそこにいた。月の光を背にして、手を軽く上げる。
 その姿が、夜の街に溶けていく。

 きっと私は、この光景を忘れない。
 十五年分の時間と、これから向かう未知の道。その境界に、彼の姿と今夜の月が静かに浮かんでいる。

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