汀月透子

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11/4/2025, 3:54:04 AM

〈行かないでと、願ったのに〉

 三月の夕方、冷たい雨上がり。東京の空気は春の匂いをはらんでいるのに、吸い込んだ冷たさに山の冷気が戻ってくる。
 スーパーで買い物かごを押していたら、天井のスピーカーから古い歌謡曲が流れてきた。
 タイトルは思い出せない。けれど、サビのひと節だけ、印象に残っている。
“行かないでと、願ったのに”
 その部分で、私は立ち止まってしまう。

──

 十五の春の手前。集団就職で東京の会社の枠に受かった私は、中学卒業後すぐ上京することが決まっていた。
 両親はもうすでに亡い。育ててくれた親戚は、悪い人というわけでもなかったが、分家の小娘ひとり親身になって育てる義理はないのだろう。
 いずれはどこかの農家に嫁がされる。ここで暮らし、見てきてわかったことだ。
 だから、東京へ行けるというのは、私にとって救いの手だった。

 卒業式も終わり、出発の日。
 見送りもなく、私は小さな旅行鞄に最低限の荷物を詰め込んでバス停まで歩く。
 昼間は春めいていても、山の影には、黒くなった雪がずっと残っていた。溶けきらない雪の塊は、冬から離れがたいのか、砂利を抱えたまま道端に貼りついている。

 多江が川沿いの停留所で待っていた。彼女もまた、十五だった。
 残ることが決まっている人の顔、という言い方があるなら、あのときの多江の横顔は、それに近かった。家のこと、親戚のしきたり、そういうものに守られずに、逆に縛られていた。

「綾子、東京は遠い?」
「どうだろう。すごく遠い気がしてる」

 手袋はしないで来た。指先に冷たい風が刺さった。多江は長いマフラーを口元まで上げて、声をくぐもらせた。

「帰ってくる人いないよね、東京に行った人って」
 多江は視線を落とした。私は答えられず、道端の残雪を指先で少しだけ触った。
 多江の声はますますくぐもる。
「溶けないと、春にならないのかな」

 バスのエンジン音が坂の上から聞こえる。近づいてくる気配だけが先に届く。
 多江は、絞り出すような声で言った。

「行かないで……綾子」

 涙がにじんで、声に重さがあった。私は驚いた。
 だって、あのときの私は喜びと希望しか持っていなかったのだ。この閉鎖的な環境で出口を手に入れたこと、それだけだった。自分だけ。

『多江も……一緒に行こう』

 心の中でそう思った。けれど、声にはならなかった。
 親身になる人がいない私に許されたのは、ここから出ていくことだけ。
 多江に許されたのは、ここに残ることだけ。それ以外が、存在していないみたいだった。
 十五歳は、残酷なほど選択肢がない。

 多江の泣き顔に、別れの言葉が出なかった。どうしたらいいんだろう。考えあぐねているうちに、バスのドアが閉まる。

 多江を残し、バスは走り始める。
「綾ぁ……」
 多江の声はエンジンの音にかき消されて聞こえない。
 そのまま、多江の姿が遠ざかる。私は声も上げられず、バスの座席で泣くだけだった。

──

 “行かないでと、願ったのに”

 歌のその部分だけが、刺さる。今も。

 買い物袋は軽かった。バスの窓に映った私は総白髪だ。
 十五で故郷を出てきて六十年以上同じ東京で生き続け、ここまで歳を重ねたなんて、たまに信じられなくなる。

 育ててくれた親戚が亡くなって以来、故郷には帰っていない。
 多江の消息も知らない。探そうと思えばできるのかもしれない。でも、まず返すべき言葉が思いつかなかった。
「あれからどうですか」なんて言ったら、十五の私が泣いてしまう。

 でも今夜は、歌の余韻のままに、ひとつだけ許されたい。あの停留所の脇に残っていた残雪の冷たさを、もう一度だけ思い出したい。
 それが、あの町の、最後の冬の温度だった。

──────

だらだら書いてもなぁということでここまで。もっとエピソード盛り込みたい気もしますけど。
後でこっそり更新するかもしれません。

11/2/2025, 3:50:30 PM

〈秘密の標本〉

「父さん、元気?」
 電話口から娘の声が聞こえる。

「週末、時間あるか。少し話したいことがあるんだ」
「うん、大丈夫。土曜の午後なら行けるよ。どうしたの?」
「いや、大したことじゃない。顔を見たくなっただけだ」

 娘は少し笑って、わかったと言った。電話を切ると、私は書斎の棚を見上げた。
 そこには背表紙に年号だけが記された黒いノートが、五十三冊並んでいる。「秘密の標本」とも呼ぶべきコレクションだ。

 医師から余命を告げられた日から、私はこのノートたちの処分について考え続けている。

──

 最初の一冊は、大学時代に始まった。親友が酔った勢いで漏らした告白──好きな女性の名前、抱えていた借金、父親への憎しみ。
 翌朝、彼はきっと忘れているだろう。でも私は忘れられなかった。だからノートに書き留めた。それが始まりだった。

 教師として三十年。隣人として、友人として、私は人々の秘密を「聞いてしまった」。
 職員室での同僚の愚痴、保護者面談での家族の事情、喫茶店で偶然耳にした他人の会話。
 人は私に秘密を打ち明けたがった。

 ノートには日付とイニシャル、そして秘密が几帳面に記録されている。
 それは私なりの「人間理解」だった。秘密を知ることで、人の本質が見えると信じていた。

──

 しかし今、これらをどうすべきか。

 燃やすべきだろうか。だがこれは私の人生そのものでもある。
 誰かに託すべきか。それは秘密の裏切りになる。

 迷いながら、私は一冊のノートを手に取った。一九九五年と書かれている。
 ページを繰っていくと、妻のイニシャルが目に入った。

「M.T.は言った──
 あなたは人の秘密ばかり集めて、自分のことは何も話してくれない。私はあなたの妻なのに、あなたを知らない」

 指が震えた。これは秘密ではなかった。妻の訴えだった。
 なのに私は、それを一つの「標本」として記録し、理解した気になっていた。そして何も変わらなかった。

 あの夜の台所の光景が蘇る。

「ねえ、あなた。人の話ばかり覚えてるけど、私のことは覚えてる?」
「覚えてるよ。そんなことしつこく言うな」
「覚えてるって言うけどね、私には“あなた自身”が見えないの」

 妻はそう言って、少し笑った。
 私にはその笑顔の意味が分からなかった。いや、分かろうとしなかったのだろう。

 妻は五年前に亡くなった。最期まで、私は自分を見せることができなかった。

 私は最後の一冊、二〇二五年と記された新しいノートを開いた。白いページに初めて「自分自身の秘密」を書く。

「私は人を愛する方法を知らなかった。
 秘密を集めることで人に近づいた気がしていたが、それは一方的な覗き見だった。
 私自身は、誰にも触れられない場所で標本を眺めていただけだ」

 深く息をついてペンを置き、私はすべてのノートを庭に持ち出した。

 火種を入れた焼却炉に、ノートを一冊一冊投げ込む。ノートは、ゆっくりと炎に包まれていく。
 人々の秘密が、煙となって消えていく。

 五十二冊まで投げ込んだ後、ただ一冊、最後のノートだけは残した。

──

「明日行くけど、何か必要なものない? 買い物してから向かうよ」
「ああ、そうだな。牛乳が切れていたかもしれない」
「わかった。他には?」
「いや、それだけで十分だ」

 明日、娘が来たときにこのノートを渡そう。私の唯一の、本当の標本として。

 秘密のコレクションは終わる。初めて、誰かに自分を見せることができる。
 遅すぎたかもしれないが、それでも。

──────

この話を考えていて、妻視点や娘視点で書いても面白そうだなと思いました。
「秘密」が標本なのか、標本が秘密なのか、どちらに軸を置いてみてもいいかもしれません。

11/2/2025, 2:39:20 AM

〈凍える朝〉

 スマホのアラームで目を覚ます。午前六時。
 カーテンの隙間から差し込む光は冬らしく白く冷たい。布団から出ると、ワンルームの空気が刺すように寒い。エアコンをつけたい衝動に駆られるが、電気代が頭をよぎって指が止まる。
 社会人一年目の給料は思ったよりも心許ない。月末はいつも、ぎりぎりだ。

 洗面所で顔を洗う。鏡の中の自分は、学生の頃より幾分か疲れて見える。昨日も残業だったし、今日も朝から会議がある。
 キッチンでコーヒーを淹れ、小さなベランダを見ると、手すりに薄い霜が張り付いていた。
 その白さを眺めていたら、あの朝の光景がよみがえった。

──

 実家の冬の朝は、とてつもなく寒い。
 布団の外に出た瞬間、肌を刺すような冷気に身震いする。吐く息が白い。大学の寮では冬でも暖房が効いていたから、実家にいるんだとしみじみ思う。
 時計を見ると午前六時。スマホでSNSを眺めると、サークル仲間の飲み会写真や、先輩の就活愚痴が流れている。指で画面をスクロールしながら、布団に戻って二度寝しようか迷っていた。

 そのとき、庭から微かな音が聞こえた。カーテンを開けると、白く凍った庭に、人影がある。
 祖父だ。分厚いジャンパーを着込み、剪定鋏を手に庭木を整えている。白い息が煙のように立ち上り、芝生は霜で真っ白に凍りついている。

「じいちゃん、何してんの。寒いから中入ってよ」

 玄関を飛び出し、庭に出ると、冷気が頬に刺さった。祖父はこちらを向き、笑った。

「 こんなん、寒いうちに入らんだに。
 この時期に切っとかんと、春に困るだよ」

 俺は父の古いジャンパーを引っ張り出し、庭に戻った。祖父が差し出した小さな鋏を受け取り、低い枝を頼まれる。
 かじかんだ手はうまく動かないが、作業を続けているうちに、少しずつ体が温まってくる。

「大学はどうだい」
「まあ、普通」
「友達はできたか」「それなりに」

 素っ気ない返事をしながら枝を切る。
 祖父は余計な口を挟まず、黙々と鋏を動かす。沈黙が気まずくて、俺はつい口を開いた。

「最近、体調どう?」
「ぼちぼちだな。歳は取りとうねえ」

 祖父は笑った。だけど、その笑顔は去年より少しだけ細く見えた。

「この庭、お前が生まれる前からだ。もう三十年以上だか」

祖父は目を細めて庭を見回した。

「春には梅が咲くし、お前が好きだった椿ももうすぐつぼみが膨らむずら」

 忘れていた。椿が好きだったなんて。
 椿は花ごと落ちる。小さな頃、その花をたくさん拾って並べて遊んだような──微かに思い出せる。

 空が明るくなり、凍った芝生が溶け始める。
 作業を終えると、祖父は「助かったわい」と俺の肩を叩いた。その手は驚くほど軽かった。

 母が淹れた熱い緑茶を飲む。祖父はこたつで目を細めている。

「また帰ってきたとき、庭仕事手伝うよ」

 そう言うと、祖父は一瞬目を丸くする。その後ふふっと嬉しそうに笑った。

「ああ、待ってるずらよ」

──

 あれから三年が経った。

 就活が始まり、帰省の暇もなくなり、内定、卒業、就職。気づけば三年が過ぎていた。
 祖父が倒れたと連絡が来たのは、去年の秋。慌てて帰ったが、祖父はもう眠ったまま反応がなく、その一週間後、静かに息を引き取った。

 葬儀の日、庭を見た。木々は伸び放題で、雑草が生い茂っていた。
 あのときの梅や椿は、今年も咲いたのだろうか。霜の庭に立つ祖父の姿が、鮮明に思い出される。

──

 コーヒーが冷めていく。時計を見ると、もう出発の時間だ。スーツを着てコートを羽織り、ドアを開けると冷たい風が吹きつける。
 駅へ向かう道を歩きながら、俺は思う。あの日、もっと話せばよかった。素っ気ない返事じゃなく、ちゃんと言葉を交わせばよかった。そして約束を守ればよかった。

 満員電車に揺られていると、スマホに母からメッセージが届く。

「今度の週末、暇だったら帰ってこない?
 お父さんと庭の手入れをしようと思う。手伝ってくれたら嬉しい」

 少し考えて、返信する。

「わかった。帰る」

 電車が止まり、ホームに降りる。今日も長い一日が始まる。
 でも今は、週末が待ち遠しい。

 実家の庭で、父と剪定をする。手はかじかむだろう。でも動いているうちに温まる。今度こそ、約束を守る。
 凍える朝は、いつか温かい朝に変わる。祖父がそうしてくれたように、今度は俺が温もりを手渡す番だ。

 雲の切れ間から青空が覗く。冬は長いけれど、春はきっと来る。
 何気ない冬の朝。祖父との、たぶん特別でもない時間を思い出しながら、俺は歩き続けた。

──────

一気に冬が来ちゃいます?w
とりあえず放置してた庭の剪定してきます……

11/1/2025, 4:55:32 AM

〈光と影〉

 私がイラストレーターになって、12年が経った。
 どんなキャラクターでも柔らかな光に包まれているように描く。そんな画風が支持され、フォロワーに支えられて長い間絵を続けている。
 穏やかな表情、やさしい色、あたたかな光。見た人が少しでも癒やされるように──そう願いながら描き続けてきた。
 いつしか「光の魔術師」と呼ばれるようになり、企業案件も絶えない。

 けれど、誰も知らない。私が対人恐怖症で、人と直接目を合わせて話せないことを。

 家族と話すのが精いっぱい、買い物はネット通販と深夜のスーパーだ。今はセルフレジを導入する店が増えたので助かる。
 打ち合わせはすべてオンライン。モニター越しなら笑顔も作れるし、声も落ち着いて出せる。
 けれど、実際に人と向き合うとなると、喉の奥がぎゅっと縮まり、言葉が出なくなる。だから私は、インターネットという「壁」に守られて生きていた。

 そんなある日、久しぶりにギャラリーへ足を運んだ。SNSのおすすめで流れてきて以来、ずっと気になっていた一人のイラストレーター、「K」の個展だった。
 展示されていたのは、すべて“影”を描いた作品。水彩、アクリル絵の具、鉛筆……様々な画材を用い、描かれたものだ。
 人の影、建物の影、木々の影──光そのものはほとんど描かれていないのに、不思議と温度があった。黒と灰色の濃淡の中、モチーフの一点だけ色がついている。そこだけ世界が呼吸しているようだった。

「……影の方が、本当のことを語ると思って描いてます」

 背後から声がして、私は身を固くした。
 振り返ると、黒いシャツを着た三十代くらいの女性が立っていた。「K」本人──烏丸ケイだった。
 彼女は穏やかな目をしていたが、どこか深いところで何かを見つめているような視線だった。

「光は嘘をつく。でも、日下部さんの光は、優しい嘘だと思う」
 不意に自分の名前を呼ばれ、息をのんだ。

「私のこと、ご存知でしたか」
「もちろん。以前、あなたの記事を書いたことがあります。
 Webニュースで“光の絵師”として紹介した特集、覚えていませんか?」
「あの……“手をつなぐ光”ってタイトルの?」
「そう。それを書いたのが私。」
 彼女はギャラリーの椅子に腰を下ろす。どうぞ、と促される。

「あの記事を書く前、あなたのイラストを見て三日間泣きました」
「……泣いた?」
「ええ。あの頃の私は人の苦しみを記事にすることしかできなくて。書くほど心が削れていく気がしてた。そこにあなたの特集記事の話が来て……
 あなたの光を見た瞬間、少しだけ“生きてていいのかも”って思えたんです」

 彼女の言葉に、胸の奥がじんわり熱くなった。そんな風に誰かを救えるなんて、考えたこともなかった。

「あなたの光は嘘かもしれない。
 でも、誰かを照らすなら、それは真実ですよ」

 その日を境に、私たちは連絡を取り合うようになった。
 最初はメッセージだけだったが、やがてケイが「会って話しませんか」と言ってきた。私は迷った。けれど、不思議と怖くはなかった。

 カフェで会ったケイは、イメージ通り静かな人だ。お互い人の目を見られず、話すときは少し視線を外していた。
 けれど、その沈黙は心地よかった。

「こうしてお話していると、晶さんがなぜ直接取材を受けないのか、わかった気がします」
 見透かされ、私は観念して話し出す。
「……人が怖いんです。
 目を合わせると、心の奥を覗かれる気がして」
「わかります。私は逆に、見ないようにしてた。
 書くことで、自分の中の何かを見ないようにしてたんです」
 否定されることなく、私は安堵した。

「ケイさんは……今も、ライターを?」
「やめました。五年前に。
 もう人の痛みを文字にするのが怖くなって」
 彼女はカップを手の中で転がしながら、遠くを見るように言った。

「言葉じゃ救えない人を、たくさん見てきました。
 だから、逃げたんです。絵なら、何も言わずに寄り添える気がしたから」
 ふぅとついたため息に、彼女のそれまでの苦悩が目に見えるようだ。

 この人は共感し過ぎるのだろう。痛みをその身に受けすぎたのだ。
 私とは違う、心の傷を抱えている。
「……逃げることって、悪いことですかね」
「いいえ。生き延びるためには、逃げることも必要だと思います。
 あなたも、光に逃げたんでしょう?」

 その通りだ。自分の闇を直視したくないが故の、光の表現。
 図星すぎて、私は思わず笑ってしまった。ケイも笑った。
 私たちはその夜、初めて互いを向きあい、笑い合えた。

 それから何度も会って話すうちに、ケイの博識さに私は舌を巻いた。
 美大を出て美術系雑誌のライティングをしていたが、取材能力と文の上手さに様々なところから声がかかったらしい。
「雑食ライターですよ」と言うが、取材前の下調べを欠かさないのだろう。
 全く私が知らないことでも、彼女が話す内に興味が出てくるのだ。

──今までとは違うスタイルで、絵を描きたい。
 彼女の話は、私の創造の翼を広げてくれるのだった。

 ケイはぽつりと提案した。
「二人展をやりませんか。
 あなたが光を描いて、私が影を描く。同じモチーフで、対になるように」
「……光と影、ですか」
「そう。片方だけじゃ、世界は立体にならない。
 あなたの光は私の影を映し出すし、私の影はあなたの光を際立たせると思う」

「そんなふうに並べたら……私の光、偽物に見えちゃうかもしれません」
「偽物でもいいんです。本気で描けば、それがあなたの真実になります」

 その言葉に、胸の奥が震えた。

 準備の期間、私は初めて“影”を描いてみた。黒を塗るたびに胸がざわつく。
「影は、光があった証なんです。あなたがここまで描いてきた光、その裏にちゃんと影があったはず」
 ケイが、そっと言葉を添えてくる。

「……自分の影を見たくなかっただけかもしれません」
「でも、それを見られるようになったなら、それも光ですよ」

 そのやりとりが、私を変えていった。

 一年後の二人展は「Between Light and Shadow ― 光と影のあいだで ―」と題された。会場には、私の光の絵とケイの影の絵が並んだ。
 来場者たちは、二つの絵を行き来しながら静かに佇んでいた。

 最後のエリアでは、意図的に二人の絵を並べた。光から影へ、影から光へとつながるような構図で描いたものだ。
 大きな号数のキャンバス2枚、迫力のある作品になった。

「見てください。あの人、泣いてる」
 ケイが小声でつぶやく。
「私たちの想いは届いたのかな」
「届いてますよ。光にも、影にも」

 最終日、私は観客の前で短い挨拶をした。声は震えたけれど、ケイが横で小さくうなずいてくれた。

「光があるから影ができる。影があるから光を感じられる。
 その両方を、私はこれからも描きたいです」

 拍手の音が、胸の奥で柔らかく響いた。

 私はまだ、人前では緊張する。でも今は、ケイと並んで立てる。
 完璧な光である必要なんてない。影があるからこそ、光は生まれる。

「ねえ、晶さん」
 帰り道、ケイが言った。
「あなたの光と私の影、原点は一緒ですよ」
「え?」
「どっちも、誰かを照らすために描いてる。だから、同じなんですよ」

 私は笑った。
「じゃあ、これからも一緒に描きましょう。光と影の間で」
 ケイがうなずいた。街灯の下、二人の影が並んで伸びた。
 その影を見つめながら、私は思った。

 光も影も、私の中にある。
 それを受け入れて描いていけるなら、それがきっと、私の“真実”だ。

──

一時、誰にも会いたくなくて深夜や早朝に営業してるスーパーに通っていました。
早朝の某肉系スーパーは前日のパックに割引シールをガンガン貼ってくれましたねぇ。

ケイさんの「K」は、CMYKのKになぞらえてます。印刷の4色。
でも、Kのインクに少しMを加えると、深みのある黒になるんですよー。

10/31/2025, 3:52:36 AM

〈そして、の先へ〉

 「主任、プレゼンの予行演習、見てもらえませんか」
 昼休み明け、大城が資料の束を抱えて俺の席にやってきた。入社三年目、真面目で素直なやつだ。少し頼りないが、こうして自分から声をかけてくるあたり、成長していると思う。
 初めて一人で進める大型プロジェクトに向けて、相当気合いが入っている。

 会議室のプロジェクターに資料を映し、大城が説明を始めた。
「そして、この新モデルは従来品より二〇パーセント軽量化されています。そして、コストも削減でき、そして……」
 思わず手を挙げた。
「待て、大城。『そして』が三連発だ」
大城は肩をすくめる。
「あ、つい」

 彼の資料はよくできている。話の流れも悪くない。ただ、つなぎが甘い。言葉の勢いに頼っている。
「客先では一言一言に重みが出る。『そして』で繋ぐと、どこも主語にならない」
「なるほど……」と頷く大城の額に、うっすら汗が光っていた。

「でも主任、間があると落ち着かないんですよ」
「わかるよ。けど、“間”もプレゼンの一部だ。相手に考える時間を渡すんだ」
 大城は真剣に頷いた。その目が、昔の自分と重なる。
 俺は少し意地悪く笑って言った。
「俺も学生の頃、似たようなこと言われたよ。レポートに『そして』を多用して、教授に『お前の文章はマラソンか』って怒られた」
 大城が吹き出す。
「走り続けてたんですね」
「そう。止まるのが怖かったんだと思う。
 話が途切れたら、相手が興味をなくすんじゃないかって」
 俺は気づいた点をまとめたメモを大城に渡し、肩を叩く。
「全体の流れはいいぞ、言葉のつなぎ方を工夫するんだな」
「はい、ありがとうございました」

 その日の帰り道、大城の練習映像を頭の中で再生する。
 拙いが、彼の言葉には真面目さがあった。間を怖がりながらも、一生懸命つなげようとしていた。
 新人時代の自分が重なる。沈黙を恐れ、空気を埋めるように喋っていたあの頃。
 今は黙ることも、言葉のうちだと知った。教えてくれたのは、先輩達だ。
 マニュアルでは伝えきれないことを、次の世代につないでいくのが今の俺の役目だが、彼らに伝わっているのかと不安が頭をよぎる。

 翌朝、出社するとき、思いついて付箋を一枚書いた。
《“そして”を減らすと、言葉が締まる。でも、伝えたい気持ちは減らすな》
 それを大城のデスクにそっと置いた。

 本番の午後。
 大城は少し硬い表情で顧客の前に立った。
「……この新モデルは、従来より二〇パーセント軽くなりました。」
 そして、と言いかけて、口を閉じる。一瞬の沈黙のあと、落ち着いた声で続けた。
「その分、使いやすくなりました。是非ともお試しいただけますでしょうか」
 その一言に、場の空気が変わった。
 俺は心の中で小さくガッツポーズをした。

 終わったあと、大城が照れたように笑った。
「途中で“そして”が出そうになって、止めました」
「いい判断だ。止める勇気ってのも必要だからな」
 そう言いながら、俺も笑った。
 そして──いや、その先はもう、言わなくてもいいだろう。彼自身が未来につないでいくことだ。

──────

「お前の文章はマラソンか」のくだりは、私が学生時代に言われた言葉です。
 文章もプレゼンも、ペース配分大事。

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