フィロ

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8/27/2024, 1:41:09 AM

「心の天気模様を記しておくのはどうでしょう?」
と医師に提案された
日々の心の有り様を日記に記録しておけ、ということらしかった

自分の心の有り様を具さに記しておけるくらいなら、私はここへは来ていないだろうと心の中で呟きながら視線を一度も上げることなく頷いた


心からの笑いが出たら、微笑むことが出来たら◯をつけていこう…
まずはそこから始めた
来る日も来る日も日記は日付のみが淋しく記されたのみ
めくってもめくっても続くその空白が、更に私の心から笑みを奪っていく気配だけがそこにあった

日記帳が最後のページに辿り着いた時、日付を書き改めてその日記帳を再び使い続ける方法もあったけれど、それはそれで残しておくことに私には意味がある気がした

そこには何も書かなかった、何も書けなかったというその時の私の心模様を空白が物語ってくれている気がしたからだ
私がその時間を確かに生きていたという証でもある


日記帳が5冊目を迎える頃、初めての◯がひとつ付いた
翌日もまたひとつ付いた
その頃には自分の気持を言葉におきかえることの恐怖は薄れていたけれど、あえて言葉は書き沿えず、◯だけを残した
その頃から少しずつ、忘れていた心が感情を取り戻し始めた
◯の数は日毎に増えた

5冊のノート最後の日、ノートをパラパラ捲ると◯が嬉しそうに踊っていた
毎日書いていた◯が無意識に少しずつずれていたのだろう
私の心が描いたパラパラ漫画だった



そんな苦しい時間があったこと
まったく何も書かれていない4冊の日記帳
この存在が私の孤独の闘いを雄弁に語ってくれている気がする



『私の日記帳』

8/26/2024, 1:35:37 AM

こういうことになることは初めから分かっていたはずだった…


その人は未知留の働く事務所の経営者であり、名前の知れた才能ある建築デザイナーであった
公の場だけでなく個人宅のオファーも請負うため、その順番を待つ客の数は何年分にも上っている

そんな彼が、家で待つ人のいる身であり、守るべき者を抱えている立場であることを知った時には、すでに未知留の心には彼が棲みついていた


彼の才能に憧れ、惚れ込み、彼の力に少しでもなるのならと、どんな小さな仕事でも誰もがやりたがらないような面倒な仕事でも、未知留は嬉々として精神誠意その仕事に向き合い彼に尽くした

そんな未知留の献身が功を奏したかは分からなかったが、彼は次々にコンペで優れた実績を積み重ねた

そんな彼とは対象的に、未知留自身は特に秀でた才能があった訳では無かったが、彼の成功がもはや自分の成功でもあるかのようにそれを喜び、ひたすら献身を重ねることに生き甲斐を感じた
そんな未知留の陰の力に彼が気付かない訳もなく、未知留のひたむきさと見返りを求めない純粋さに次第に彼も心を寄せていった


二人の絆が深まる中で彼はこんなことを良く口にするようになった
「今の僕の成功があるのは君の力が大きいんだ   君の細やかな気配りやサポートが無かったら、危うく足を掬われそうな事もどれだけあったことか   もう君無しでは僕の仕事は成り立たないよ」

この言葉が欲しい為に尽くしてきたわけでは無かったけれど、これまでの日々が決して無駄ではなかったこと、未知留の献身が彼の成功の一端を担っていることにこの上ない喜びを感じた
と同時に、彼にとっても未知留の存在が最愛であるとの確信を心の真ん中に座らせた


彼の妻に対して嫉妬の感情を抱いたことは一度も無かった
実際、仕事人間の彼は仕事場に居る時間の方が圧倒的に長かったし、その間の彼の一挙手一投足を妻は知らない
そのことが未知留の優越感を何より強くした
そして「彼の成功は私のお陰」という思いはすべての不安ををなぎ倒した


仕事人間の彼だったが、家族の為の休日は死守していた
未知留もそんな彼をリスペクトした
彼の妻の座を奪いたいとか、彼が家族と過ごす休日を恨めしく思うことはなかったが、彼の心はすべて自分のものにしたいという激情は常に未知留の心を波立たせた



次の日曜日は未知留の誕生日だった
今までは平日のことばかりだったので、仕事帰りに食事を共にし特別な部屋で特別な時間を楽しむことが恒例になっていた

今年の誕生日は祝えない…と諦めていた

「次の日曜日は誕生日だよね  仕事ということにしてあるから、大丈夫だよ  ちゃんとお祝いしよう」
と思ってもみない彼からの誘いに未知留は有頂天になった
自分の為に家族に嘘をついてまで時間を作ろうとする気持ちが嬉しかった



いつもより丁寧に化粧をし、一番美しく見せてくれるとお気に入りのワンピースのファスナーをあげようとした時、突然携帯が鳴った

「ごめん、子供が熱出した  これから病院だ 悪いな」
と、一方的に話して切れた

きっと、電話がし辛い状況でわざわざかけてくれたのだろう
でも、まったく感情の入らない機械的な声とそのフレーズ
怪しまれ無いために、あえてだろう…
と自分に懸命に言い聞かせた

相手は家庭がある身
こんなことは当たり前じゃないか…
仕方ないことじゃないか…

でも…
でも…

言葉には言い表せないような感情と、今まで抑えつけていた嫉妬や羨みやドロドロと心の奥底に渦巻いていて潜んでいたものが一気に吹き出した



こんなやるせない気持ちになるなんて…
こんな気持ちにならないように、蓋をしていたはずなのに…


こんな気持ちと闘い続けるほど「彼の愛」には価値があるのか…

そもそも、彼は私を愛しているの?

彼の仕事に無くてはならないとは言われているけれど、彼の人生に無くてはならないとは言われてはいないのでは…?
「私がそれを一方的にはき違えていただけなの…?」


未知留は幾度となく愛を告げている

でも、彼の口からは「愛」という言葉を聞いたことは一度も無かったことをもう、認めざるを得ない

彼にとっては、未知留は成功に必要な人であるだけ…だということを



こんなやるせない気持ちの誕生日を恐らく一生忘れることはないだろう

着かけていたワンピースの艶やかさが恨めしかった




『やるせない気持ち』

8/24/2024, 5:49:31 AM

東京生まれの東京育ち
そこ以外で暮らしたことは無かったが、私が嫁いで実家を出ると両親は海辺の街へ移り住んだ

「海を見ながら暮らしてみたい」という母の長年の夢を叶えたのだ
その時から私の実家は、海を見下ろす高台のその家になった

引っ越しを終えて改めて訪ねた新居に入る際、「お帰りなさい」と母は優しい声で迎え入れてくれた
私は慣れない家の玄関先で「お邪魔します」とうっかり出そうになった言葉を慌てて呑み込み、「た、ただいま」と真新しいスリッパにつんのめるようにして足を通した


庭のデッキからは美しい海が一望できた
太陽の光がキラキラと宝石のように煌めいていて、その動きで波の立ち具合いが分かった

「素適な眺めでしょ  時々豪華客船や大きなタンカーが通るのよ  こんな景色を見ながら暮らしたら長生きするわよね」と母はうっとりとした表情を浮かべた
東京の都心の大きな土地を手放したことなど微塵も後悔していないようで、私は安堵した

ほとんど初めて見る景色のはずなのに、何故か懐かしい気持ちになった
胸いっぱいに吸い込む潮風がさらに懐かしさを思い起こさせた

きっと、景色とか匂いとかよりも、「海」というものに人は何故か懐かしさを感じるのかもしれない

「ひいては返す波の音は母親のお腹の中の羊水に揺られている音に似ている」という文章を読んだ記憶がある
きっと「母なる海」、誰もが母から生まれるように、海は誰もがどこか懐かしいような、そこへ帰りたくなるような存在なのかも知れない


初めての海辺を歩いても、私のような新参者もまるで昔からそこに居たように優しく受け入れてもらえた

「おかえり  またいつでも帰っておいで」
柔かい波が足元を濡らしながら、そんなメッセージを運んでくれてきたような気がした


私の住む場所からは距離も離れているので、実際には盆暮れ正月にしか「実家」へは帰れない
それでも、時々フッと「あぁ、海へ帰りたい」と思うのだ




『海へ』

8/23/2024, 4:24:13 AM

昨夜祖母の夢を見た
律子は急にお稲荷さんが食べたくなり朝から油揚げを炊いている

律子の料理好きは祖母譲りで、幼い頃から祖母の手ほどきを受けた
野菜の切り方や食材の丁寧な処理の仕方、それぞれの作業の意味や、その料理に込めた昔の人々の思いなどについても、祖母はひとつひとつ丁寧に教えてくれた

今と違って食材や道具が豊富には無かった頃、如何に人々は工夫しながら食卓を豊かに彩る工夫をしていたかを知った律子は子供心にもとても感銘を受けたものだった

そんな祖母から直伝のお稲荷さん
少し甘めで、黒砂糖を使うのでコクも色も味わい深い
そしてもう一つの特徴が、おあげさんを裏返しにひっくり返して作るお稲荷さんもあること
表のままのものと裏返しにした2種類が出来上がるのだ

「この裏返しにしたお稲荷さんは何だかボコボコしていて汚らしいよ  律子はあんまり好きじゃない」
と言う律子に祖母は言った

「味はまったく同じでしょう?見た目が少し違うだけ   中身は同じなのに汚らしいとか不味そうとか言ってはいけないよ  見た目の違いはそれぞれの特徴で個性なんだよ  
このお稲荷さんはね、物事には裏と表があるけれども、その二つが合わさってひとつなんだと  片方だけを見て判断してはいけない、という戒めの意味もあるんだよ」


そんな祖母の言葉を懐かしく思い出しながら、律子は裏返しにしたおあげさんにすし飯を優しく詰めていく

今では、その裏返しにしたお稲荷さんの方が口に入れた食感が面白くて大好きだ


律子も娘が大きくなったらそんな話をしながらお稲荷さんの作り方を教えてあげたいと思っている




『裏返し』

8/21/2024, 11:41:58 PM

最近鳥の姿をあまり見かけなくなった
ゴミの収集日には早朝から騒々しい声を上げていたカラスもとんと見ない

これだけの暑さがかれこれ3ヶ月ほど続いているのだから無理もないのだろう
日中のあの暑さの中を飛び回ったら、それこそ"焼き鳥"になってしまいそうだ

日本の各地で農作物や畜産物、はたまた海の中までその影響が出ていると聞く
そんなニュースを耳に目にする度に、動物たちはどうしているのだろうか…と気に掛かる


昆虫や木々の実や花を餌にしている鳥や動物たちも、この夏の食糧確保は至難の技だろう
本来はその翼を広げて自由に空を飛び回りながら餌にありついていた鳥たちも、日中は木陰で涼を取りながら
「鳥のように自由に空を飛び回りたいよ…」
なんて、この暑さを恨めしく思っていいるとかいないとか…




『鳥のように』

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