『行かないでと、願ったのに』
行かないでほしいとあれだけ懇願したのに、彼女はいっさい取り合ってはくれなかった。
「……どうしても、行くんですか?」
「ん?」
彼女の母校は、都内でも屈指の進学校だ。
卒業から10年という節目で、同窓会が開かれることになったらしい。
勉強、部活、その他諸々の学校行事で、競走と牽制を繰り返しているものだと思っていた。
同窓会なんて開催されるような、交流や繋がりがあったとは意外である。
社交的な交流を大切にする彼女のことだ。
同窓会の案内が来たら、スケジュールさえ調整できれば必ず出席する。
いくら俺が、嫌だ行くなと喚いたところで、結果が覆ることがないことくらいはわかっていた。
だが、しかし。
悪びれることなく、彼女は寝室に置いている姿見で装いを確認した。
着ているのは、3日後に控えた同窓会に行くためのドレスである。
彼女は鏡越しに俺と目を合わせた。
「そんなにダメだった?」
ダメ、なんてもんじゃない。
俺と彼女は通った学校も、年齢も違うのだ。
部外者である俺は、彼女の隣で目を光らせることもできない。
大胆に背中が開き、体のラインをタイトに魅せるドレスを選んでいたなんて聞いてなかった。
そんな色めいたドレスを着せて、同窓会など送り出せるわけがない。
どうしてこの人は、放っておくと男に安ウケする服を好むのだろうか。
嗜好は人それぞれではあるが、その美しい背中に魅了される不埒な輩は絶対に出てくるはずだ。
シースルーでごまかさずに、きちんとしっかり、しまっておいてほしい。
「せめてこういうのを着て行ってほしいです」
「喪服じゃん」
携帯電話の画面を彼女に見せると、眉をしかめて却下された。
「それに、パールネックレスとイヤリングはこっちのドレスのほうが合うよ?」
「……」
うわ。
あざと……。
ツン、と指先で揺らしたネックレスと耳元で光るイヤリングは、結婚を機に俺が贈ったものだった。
彼女は普段、結婚指輪以外のアクセサリーを身につけない。
贈っても負担にならない、フォーマルな場で使うようなシンプルなアクセサリーを選んだ。
こんな場面で引き合いに出されるとか、誤算でしかない。
同窓会は3日後に控えている。
かくなるうえは最終手段だ。
彼女の好きそうなシンプルなデザインかつ、俺好みのひとりでは脱ぎ着しにくい露出の少ないドレスを探す。
せめてもの償いとして、色味だけは元のドレスと同じシックで深い翡翠に揃えた。
*
三日三晩、俺はことあるごとに彼女の背中と鎖骨に、キスマークを咲かせる。
主に背中に痕を残したせいか、ギリギリまで彼女に気づかれることはなかった。
とはいえ、確信的な行動は当然、彼女に怒られる。
「こういうの、ホンットにどこで覚えてくるんだよ」
「俺、好きな人のためには努力できる男なんですよ?」
ドレスの背中についた小さなクルミボタンを留めて、赤い痕を隠していった。
「……」
どれだけ彼女が文句を言っても、背中に残る俺の独占欲は消えない。
ハアッとため息をついて無理やり溜飲を下げる彼女に、そっと声をかけた。
「そっちこそ」
「え?」
「ああいうドレスは俺が許さないこと、知ってて選んでますよね?」
「はあ?」
彼女は心外とばかりに振り返った。
訝しむ瞳が本当に無意識で選んだんだと語っている。
それはそれで、愚かしくて愛おしい。
「どすけべ♡」
「違うっ!」
横着な踵に俺の脛を狙い撃たれた。
危な。
「ちょっと、おとなしくしてください。背中のリボンがまだですよ」
「面倒な服、着せやがって……」
「脱がすときも手伝いますよ♡」
「すけべなのはどっちだよ」
「俺は……、今さらでしょう?」
軽口を叩きながら、背中の細いリボンを編みながら蝶々結びをする。
最後にパールネックレスとイヤリングを身につけた彼女を、同窓会へと送り出すのだった。
『秘密の標本』
リビングのローテーブルの上に、彼女はひとつひとつ、静かに押収品を並べた。
装飾品が壊れないように最新の注意を払ってファイリングしたヘアピンとヘアゴム。
ファスナーつきの保存袋に入れた歯ブラシ。
髪の毛は1日1本と決めて、毎日厳選して小さな瓶に入れて保管していた。
それらには全て、日付がラベリングされている。
もちろん、俺が書いて保存したものだ。
比較的小さなローテーブルのスペースが半分ほどそれらで埋まったあと、彼女は俺を睨みつける。
「あとこれぇっ!」
治安の悪い口調とは裏腹に、丁寧に俺の目の前に差し出されたノート。
男が所有するにはいささか派手な紫色のレザー表紙は、バラの花がプレスされていた。
ダイヤル式の鍵がついているのだが、当たり前のようにロックが解除されている。
「よく解除できましたね?」
「ただの私の誕生日じゃん。なんの捻りもないし、鍵の意味なくない?」
「別に、見られて困るものでもないですし」
「え、これが……?」
中身は推しである彼女の日常生活を認めた、俺の日記帳となっていた。
日付、天気、起床時間、朝食メニュー、買い物履歴、トイレの回数、就寝時間などなど。
俺独自のフォーマットに沿って、丹精込めて書き綴っていたのだ。
「ただの日記帳じゃないですか」
「人の生活記録を『日記』とのたまってんじゃねえよっ!?」
「その日に起きたことを俺が書いてるんですから、コレは間違いなく『日記』でしょう」
「……ウソでしょ!?」
目を白黒させてフラフラしていてもビジュが崩れないのは、さすが天使である。
悩ましくしてる姿もかわいい。
現世で彼女という存在と巡り会えたことが奇跡的なのだ。
本当に、生まれてきてくれてありがとう。
「だってこうして日記をつけると、夢のような奇跡が現実であることを実感できるじゃないですか」
「はあ!?」
存在だけでもかわいくてたまらないのに、俺というちっぽけな人間を認知してくれて、さらには交際を始め、あまつさえ生活をともにするまでにいたったのだ。
俺にとって都合のいい現実を夢と見間違えないために、同棲を始めた日からこの日記をつけ始めたのである。
「それに、あなた。生活を見守られることに対して、全然抵抗感持ってじゃないですか」
玄関、リビング、ベランダと見守りカメラを3台も設置しているのに、素っ裸で部屋中を闊歩している。
挙げ句の果てにはしどけない姿のまま、来訪者を出迎えようとする始末だ。
そっちのほうがよっぽど事件になりかねない。
「抵抗がないだけで本意ではねえよ!」
「えっ!? イヤなんですか!?」
「当たり前だろ!!」
「そうですか。わかりました……」
推し本人のストレスになってしまうくらいなら、この生活は手放すべきである。
しかし、それならば彼女には直してほしい習慣があった。
「では、夏場でもきちんと服を着てくれるようになったら、俺もやめてあげます♡」
「なんでそっちが遥か高みから譲歩しに来やがってるんだよ!? ちょっとは悪びれろ、クソったれ!」
俺の目をちょろまかそうと俺の前ではしっかりと服を着る、小賢しくなった彼女には言われたくない。
まだまだ緩いし雑だし心臓に悪いのだが、俺の前でだけ、確実にガードが固くなってきていた。
そんな状況、納得ができるわけがない。
互いに硬直状態が続いていたが、彼女は根負けしたかのようにため息をついた。
「……わかった……。ヘアピンと日記帳とやらはそれで見逃してあげる」
「えっ!?」
俺の目の届かないところでも服を着ると!?
できるのかっ!?
あの彼女がっ!?
彼女に対していくばくか失礼なことを思いながら見つめた。
俺の言い分を理解したのか。
彼女はイラァっとしたオーラを隠さないまま、ローテーブルに指を差した。
「その代わり、髪の毛と歯ブラシ収集はやめてもらうから」
「なんでですかっ!?」
「気持ちが悪いからに決まってるだろ!」
髪の毛の入った瓶と中身を分別して、容赦なくゴミ袋に入れた。
さすがに髪の毛をない混ぜにされると、いつ収集したものか区別ができなくなる。
「キャアアァァッ! なんてことするんですかっ!?」
「うるっさい!」
袋から歯ブラシを全て取り出した彼女は、それらを鷲掴みして勢いよく立ち上がる。
「ちょっと!? どこ行くんですか!?」
「あん? あとでこっそり回収されないように、今からコイツらと排水溝の大掃除する」
「イヤアアァァッ!?」
俺の断末魔は無慈悲にもイヤホンで塞がれてしまった。
乾燥が気になる季節だというのに、水仕事をしないでほしい。
ぺしょぺしょと泣き縋る俺をよそに、彼女は下手くそな鼻歌を刻んでいった。
『凍える朝』
酔っ払って彼女に手を出したことは、曖昧で散り切れになった記憶にも残っている。
ソファで不遜な態度で足を組んだ彼女の目の前で、俺は正座を余儀なくされていた。
違う。
彼女は俺に座るよう促しただけで、座り方までは要求していない。
だが、彼女の態度、口調、俺を見上げる視線の圧力。
彼女は全身で強めの不機嫌を撒き散らしていた。
リビングに満ちた唐突ともいえる緊張感は、とてもではないが横並びに座って腰を抱けるような雰囲気ではない。
「友だちとハロウィンを楽しむことは聞いてた」
静かに、冷ややかな声が俺の頭上に刃となって突き立てられて、背筋が凍った。
昨夜のハロウィン、俺は友人に誘われて仮装して酒を飲んだ。
発色のよさそうなスプレーで髪の毛を金色に染めて、ツテを頼りにチャラそうな服とジャラジャラとした靴を借りる。
俺は生まれて初めてコンタクトにチャレンジして、「チャラ男」というコスプレをしたのだ。
意外とウケて盛り上がって、写真まで撮った記憶がある。
「だけど、外泊するつもりだったなんて知らなかったな?」
はい?
「なんです、それ?」
「ふーん?」
しまった。
ひとつ、彼女の地雷を踏み抜いてしまったことに気づく。
踏んでしまった手前、今さらどうにかなるわけでもなく、黙って冷や汗を流すばかりである。
「じゃあ誰の家のつもりで、深夜にインターフォン鳴らしてきたのか教えて」
「んんんっ!?」
全く身に覚えがない。
しかし、彼女は酒で記憶が飛んだことを言いわけにさせるつもりはないらしく、容赦なく畳みかけた。
「飲みすぎて電車揺れが気持ち悪くて限界だから泊めろって、玄関前で騒いでたよね?」
この言い回し……。
ある可能性にたどり着いて俺は顔を上げた。
「あの、俺、もしかして……浮気とか、疑われてます?」
「あ? 疑ってきたのはそっちだろ」
「え」
心底、鬱陶しそうに吐き捨てた彼女の言葉に耳を疑う。
彼女が、浮気?
は?
させるはずがないが?
だからといって、彼女が嘘をつく理由もなかった。
「なんで私がここにいるかとか本命がどうとか浮気がどうとか、いわれのない疑いをかけてきやがって。ここは私の家でもあるんだよ。挙げ句の果てに、今さら俺なしで生きていけると思ってるのかとか図々しいことを延々と熱弁してきて何様のつもりだ? この酔っ払い」
「はあっ!?」
信じられない言葉の羅列に目眩がする。
無自覚に人をたらし込んでは無遠慮に行為を切り捨てる人だ。
そんな彼女に対して嫉妬に狂うことはあっても、不貞行為を疑うなんて酒に飲まれてもないと思っていたのに。
酒に酔って記憶が混濁していたとはいえ、真面目で几帳面な彼女を疑った自分自身に腹が立った。
「だから、誰の家に行くつもりだったのかなって」
「いや、それは本当に……」
わからない。
と、素直に白旗を上げかけたところで、俺がハロウィンでチャラ男の仮装をした理由を思い出した。
「ああああぁぁっ!?」
だが、これを口にしたら絶対に彼女に怒られる。
怒られるだけですめばマシなほうだ。
「なんだよ」
素直に言葉にするか迷うが、彼女は容赦なく俺を促した。
ごまかしたら軽蔑されて、暴露したら逃げられる。
どちらにしても詰みな状況のなか、俺は後者を選択した。
「……あなたを寝取ってみたいという欲求が爆発したのかもしれません」
「……」
これが、俺が「チャラ男」のコスプレをしようと思い立った動機である。
「とはいえ、あなたに浮気させるとか解釈違いも甚だしく冗談にもなりませんし、かといって俺が本命ではなく間男とか耐えられる気がしなくてどうしたもんかなと。でも、間男も本命も俺がやればいいんだってひらめいて、いかにも恋人を寝取りそうな「チャラくて悪さしそうな男」の格好をしてみたんです」
ひと通り言い終えて、チラッと彼女を見る。
梅干しみたいに顔にシワを寄せてため息をついた。
「……本当にそんなくだらない理由ひとつで、人の体に好き放題しゃぶりついてきたのか……」
「はああぁぁっ!?」
酔っ払って彼女に手を出したことは、曖昧で散り切れになった記憶にも残っている。
変に乱れた服やら、体の気怠さやら、俺自身の体に違和感が刻まれていた。
だが、好き放題とか、しゃぶりついたとはどういうことだ!?
「どうしてくれんだよコレ」
恥ずかし気もなく長袖のシャツを脱ぎ捨てた彼女の姿に、俺は目を見張る。
上半身のいたるところにキスマークと、肩には噛み跡までついていた。
え、うわっ!?
これ、全部!?
えぐっ!?
「あの、これ……。本当に俺がやったんですか?」
「ほかに誰がいると?」
ソファに置いているクッションを投げつけられた。
「それはそうですね?」
いてたまるかという話でもある。
「あの、痛く……なかったですか?」
「はあ?」
「すみません! 痛いですよね!? ごめんなさいっ!」
「……見た目、変わってもれーじくんはれーじくんだし、そこは大丈夫」
シャツを着直したあと、彼女はギロリと俺を睨みつけた。
「ただ、酒が入ると本当にしつこい! ガチで酒の飲み方には気をつけろっ!」
「すみませんっ!」
「次はつき合わないからなっ!?」
「はいっ! …………え? つ、つき合う?」
「優しくするからこの姿の俺に寝取られろとかなんとか、ぺしょぺしょなりながら懇願された」
なんで受け入れちゃうんだよ……。
覚えはないが、やりかねない自分自身の行動に顔面を両手で覆ったのだった。
朝からツラがいいな……。
朝焼けより数倍もまばゆい彼女の寝顔に目眩がした。
珍しくよく眠っている彼女の頬に手を伸ばす。
「ん……っ」
規則正しい寝息が乱れ、枕とシーツが音を立てる。
身を捩った彼女から放つ、ささやかな幸せの音に胸の奥が締めつけられた。
はらりと重力に従った横髪を彼女の耳にかけたとき、重たそうに瞼が持ち上げられる。
「……?」
ふわふわの睫毛の隙間からうっすらと覗いた瑠璃色の瞳は、ぼんやりと揺蕩いながら俺を捉えた。
かわいい。
この寝起きを毎日好きなときに拝めるとか最高でしかない。
もちろん、俺が早起きできればの話ではあったが。
空が明るくなる時間もすっかり遅くなり、朝晩の気温の冷え冷え込みも厳しくなってきた。
同棲して初めてともに迎える季節に、彼女もまだ慣れていないのだろう。
「あ、れ……?」
「おはようございます」
「寝すぎ、た?」
少しばかり焦った様子で体を起こそうとする彼女に腕を伸ばした。
腕の中に閉じ込めて、ぎゅうぎゅうと彼女の体温を堪能する。
「今日は休みでしょう? 少しくらい起きる時間がずれても問題ないのでは?」
「……やすみ……」
俺の言葉を拙く反芻する彼女にうなずくいた。
ベッドの上で近くなった視線をいいことに、軽い気持ちでキスをする。
少し乾燥した彼女の唇が潤いを含んだ頃、朝から爛れた感情が肥大化する前に唇を離した。
まだポヤポヤしてる。
意外と、寒くなると起きられないタイプなのかも。
触り心地のいい頬を撫でていると、彼女が全力で甘えてきた。
「もう、おしまい?」
は?
カッ、と理性にヒビが入る。
「……もっと」
はあっ!?
ん。
なんて、彼女は顔を上げて瞼を伏せて、唇を差し出す。
太鼓のリズムゲームよろしく、おにモードで理性と心臓を壊しにかかってきやがった。
「あ、あとで怒るのはナシですからね……?」
「んー……」
激しく心臓を揺さぶられながら、俺は彼女の唇をさらっていくのだった。
*
その夜。
寝支度をすませた彼女は無防備にベッドへ潜り込む。
枕に縋りついた彼女の上に跨ると、彼女は目を丸々とさせながら顔を向けた。
「え、あ……? す、するの?」
「ダメですか?」
「そういうことじゃ……。けど」
「けど?」
暗がりでも彼女の頬が赤く染まっていくのが、雰囲気でわかる。
ぶつかっていた視線を恥ずかし気に逸らしたあと、彼女はしどろもどろに言葉を紡いだ。
「だ、だって。朝……、あんなに……」
「あぁ」
わかっていたが、案の定、好き放題しゃぶりついた結果、彼女にはしこたま怒られた。
「あれは、あなたのリクエストにお応えした結果でしょう」
「あ、あそこまではっ!? も、求めてなかった……っ」
寝ぼけていたとはいえ、発言の自覚はあったらしい。
ボンッと顔を真っ赤にした彼女は、すぐに勢いがしおしおと萎んでおとなしくなった。
「……微調整が必要なら事前に要求しておいてください」
今ですら、恥ずかしそうに身を縮める姿すら愛おしいのだ。
あんなふうに煽られ、後出しで彼女からのワガママを聞けるほどの理性なんて残るはずがない。
「とにかく。それはそれ、これはこれです」
彼女の纏う強張った雰囲気。
羞恥に染まって逸らされた視線。
浅くなった小さな息づかい。
紅潮した頬に、汗ばんでいく手のひら。
焦ったく響くシーツの衣擦れ。
簡単に俺に押し倒されて、彼女の全てが俺の影に覆い尽くされた愛らしい姿にそそられる。
「なに、それ……」
澄んだ瑠璃色の瞳が怯えたように震えて、俺という影に睨まれていた。
「今度は俺があなたを求める番でしょう?」
容赦なく距離を詰めて彼女に迫る。
鼻先を擦り合わせて、逃げていく彼女の視線を追いかけた。
「イヤなら、やめますよ?」
「イヤじゃないから……、困ってるの」
「そうですか」
「恥ずかしいから、全部、言わせないで」
キュッと俺の指に細い指が絡まる。
口元が緩んでいくのを感じながら、彼女の熱を求めていった。
『光と影』
味噌汁が五臓六腑に染み入る季節になってきた。
キッチンにアサリと味噌の香りが立ち込めていたときである。
「あ。お味噌なくなっちゃった」
そんな彼女の言葉から、俺たちはスーパーで買い物をするために身支度を整え始めた。
リビングで軽くメイクを施していく彼女は、最後の仕上げといわんばかりにリップブラシを唇に乗せる。
薄い唇が鮮やかな桃色に彩られた。
上唇と下唇を合わせながら口紅を馴染ませる動作は、何度見ても魅入ってしまう。
「モモみたいですね」
「え?」
余程唐突に感じたのか、彼女はポカンとしながら小さな鏡を通して俺を見つめた。
「食べたくなってきました」
「モモかー。でもさすがにもう売ってないんじゃない」
鏡に映る自身の唇を見つめながら、楽しげに声を弾ませる。
その視線が欲しくて細い顎をさらった。
「かな……?」
視線を手に入れたら、今度は瑞々しい唇も欲しくなる。
ちゅむ。
彼女の言葉を唇で遮った。
化粧品特有の甘やかな香りと、艶を唇から奪う。
彼女の下唇に濃く乗った鮮やかに潤っていた桃色を執拗に食んだ。
「……もー」
「リップ、取れちゃいましたね」
口紅に代わって俺の唾液で濡れた唇を親指で撫でる。
身を捩って恥ずかしさをごまかそうと、彼女はツンケンと顔を逸らして俺の指を払いのけた。
「れーじくんの唇がぷるぷるになっちゃったじゃん」
「コレで、拭ってくださいよ」
照れを隠すために無法地帯となりかけるお口にかまうことなく、舌先でノックをする。
「ダメ」
鼻の抜けた息をこぼしながら、彼女は蠱惑的に瞳を揺らした。
「まずは買い物から、ね?」
買い物デートは譲れない。
俺が絆されることをわかっていて、余裕たっぷりに煽る彼女を簡単には手放したくもなかった。
「……『から』ですか?」
眼鏡というレンズ1枚。
この板を挟まないと彼女の輝きをきちんと捉えることはできないのに、隔たりとなる眼鏡が煩わしかった。
だが、さすがに彼女の反応が速い。
フレームにかけた指は、彼女の細い指に絡め取られてしまった。
「買い物してー、手を洗ってー、部屋の片づけしてー、ちょっと休憩してー」
捕らわれた俺の手先は彼女に操られたまま、きれいにメイクされた顔の輪郭をなぞる。
「キスはそれから、でしょ?」
爪の先に薄い桜色の唇が乗った。
ちろ、と彼女の舌先が爪に触れる。
「それ」
誰に覚えさせられたんだよ。
油断すると迫り上がってくる嫉妬と独占欲を、無理やり押さえ込んで平静を装った。
「……焦ったくてチュウだけじゃすみそうにありませんけど?」
「キャアッ。えっちー」
パッと手を離して、彼女は楽しそうに表情を綻ばせる。
無邪気でかわいいが、それで絆されるほどチョロくはなかった。
自由になった両腕で彼女の腰を抱き寄せる。
「俺、まだなにも言ってませんよ?」
夏の頃に比べて厚手になったシャツの下から、骨盤の薄い皮膚の上を撫で回した。
「そっちこそ、なにを期待したんです?」
「私がしてあげるのは、キスだけだよ?」
妖艶に揺れる瑠璃色の瞳に目を奪われていると、ひんやりとしたコットンが唇に押し当てられた。
「なにか、してほしいことでもあるの?」
いくらなんでも、それは思わせぶりがすぎるだろう。
反撃されることを全く考慮していないあたり、脇が甘すぎて心配になるくらいだ。
「俺のしてほしいこと、してくれるんです?」
「買い物が先」
挑発的な微笑みに、俺はあっさりと白旗を上げた。
「……さすがに絆されました」
「ふふんっ」
得意げにふんぞり返っているが、本当に……。
本っっっ当に、負けず嫌いの彼女は目先の勝負しか見えていなかった。
そして、買い物のあと。
俺は彼女をグズグズになるまで蕩かしていく。
据え膳としてぶら下げてくれたご褒美を、心ゆくまで堪能した。
『そして、』