※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在するものとは一切関係ありません。
タイトル『君と見ていた夢』
長い間忘れていた。
全ての始まりは君が見ていた夢だったということを。
自分で自分のことを画家と呼ぶのがまだ恥ずかしい。有名というほどではないが、ありがたいことに『夢を描く作家』なんて呼ばれ方をしながら、展示をすれば必ず足を運んでくれる人も何人かいる。少ないけれど、確かなファン。顔が見える人、記帳に毎度名前の残る人、面識はなくてもSNSで私の展示会に来たと言ってくれる人。
――次の絵が楽しみです。
展示会でかけてくれるその一言が嬉しい反面、胸の奥がきゅっと縮む。
止まってはいけない。描き続けなければならない。そうしなければ、期待を裏切ることになる気がして焦りが募る。
一方で自分の描いているものが本当に期待に応えられているのか。誰かにとっては悲しみを与えていないか。不快な思いをさせていないか。絵の中に様々な思いが混在して、所々が歪んで見える。
描き終えた絵のたった一筆が気になると、すべてのバランスが崩れて見える。キャンバスを真っ白に塗りつぶして、初めから描き直すことも多くなってきた。
ある日、アトリエの整理をしていて、古いスケッチブックが出てきた。紙は黄ばんで、角が少し折れている。開いた瞬間、懐かしい線が目に飛び込んできた。
それは、今の作品スタイルのもとになった最初の絵だった。
――昨日、変な夢を見たんだ。
そう言って君が話してくれた、断片的な光景。空の色も、場所も曖昧で、論理なんてなかった。でも君の言葉に滲む微睡みの色や形を、どうしても描きたいと思った。そこに義務や目標などなく、ただ君に見せるために。
今のスタイルのもとと言っても、今見返してみれば正直うまくはない。構図も甘いし、色使いにも迷いがある。でも、その絵には深い余白があった。制約も目的もない。夢とは本来、そういう場所だったはずなのに――。
私はそこで、はっとした。
あの頃の私は、誰かの期待に応えるために描いていなかった。夢はゴールではなく、誰かと分け合う途中経過だった。止まることも、迷うことも、怖くなかった。
いつからだろう。
夢が檻になったのは。
自分の作品を愛してくれる人の姿が見えるからこそ、一人一人の期待が重くのしかかる。応え続けなければ、存在価値がなくなる気がしていた。
いつの間にか、その期待すら自分の中で作り上げていなかったか。人の声を借りた自分への期待だったのではないか。
まだできる。まだ足りない。
まだ、まだ、まだ……。
自分を閉じ込めていたのは、私が自分で作った檻だった。鍵は最初から、内側にあったのに。
君との時間は、いつの間にか制作の合間に押し込められるようになった。会話は短くなり、夢の話をすることもなくなった。
いや、あの時も君は夢の話をしようとしたんじゃない。
ただ近くで寄り添ってくれた君から漏れてくる言葉を、僕が描きたかっただけなんだ。
私は君の見た夢の絵を、アトリエの入口から一番よく見える壁に掛け直した。展示のためでも、過去に戻るためでもない。ただ、忘れないために。
君が見ていた夢を。
私が夢を追い始めた理由を。
夢は、立ち止まったくらいで消えるものじゃない。向かう先さえ見失わなければ、ちゃんといまもそこにある。
もう一度筆を取ろう。期待のためだけじゃなく、大切なあの人と同じ景色を見るために。
#君が見た夢
12/17/2025, 5:04:28 AM