※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『歩く速さ』
私の職場はいわゆる『アットホームな職場です』と求人誌に載るような小さな町工場だ。
工場の大掃除を終え、年内最後のシャッターを閉める。仕事終わりの忘年会には全員が参加したが、家庭の事情や遠方から来ているメンバーは帰宅し、二次会には数人が残った。
二次会は繁華街にあるスナック。社長の中学からの友人が一人で切り盛りしている小さな店は、私たちだけで貸し切り状態だった。
カウンターの端でスナックのママと話をしている社長の横で、私と同期の高橋、パートの仲村さんが並んで座る。
「工場にはもう慣れましたか?」
私は仲村さんに訪ねる。彼はもともと社長と仲が良く、彼を『仲ちゃん』と呼んで慕っていた。夜は相棒と二人で小さなバーを営む傍ら、昼間は工場を手伝ってくれている。
「ええ。大したことはできませんけど、楽しく働いてます」
仲村さんは柔らかい笑顔で答える。
少し離れたテーブルでは、まだ二十歳を超えたばかりのアルバイト三人がテーブル席を囲んで笑いながら話をしている。
「……あの三人、本当に仲がいいですよね」
仲村さんが、懐かしむように目を細める。
「幼馴染なんですよね。この前も工場で作業してるとき、次の休みにどこ行くかで盛り上がってましたよ」
高橋は一瞬だけそちらを見て、すぐにグラスへ視線を落とした。
「仕事中に褒められた態度じゃないな」
口調は淡々としていて、怒りはない。
「もっとテキパキ仕事してもらわないと」
設計部門にいる高橋は、彼らとの接点も少ない。現場で製造管理として彼らの働きを見ている私は、なんだか彼らを軽く見られているようで少し腹が立った。
「でもまぁ」私はグラスを置いて言った。「言われたことは、きちんとやる子たちですよ」
「あまり甘やかさないほうがいいと思います」
高橋は表情ひとつ変えずに言う。彼らの何を知ってるんだ――。そんな言葉がつい喉元まで上がってくるが、ここで喧嘩しても仕方がないと、私は言葉を飲み込んだ。
「店、閉めに行ってきましょうね」
徐に仲村さんが立ち上がる。
「そう言えば、今日が年内最後でしたっけ」
私の言葉に仲村さんは静かに笑いながら頷く。
「皆さんはどうぞ夜を楽しんで」
その言い回しがなんとも仲村さんらしかった。仲村さんは社長と軽く言葉を交わして店を後にした。
仲村さんが帰った直後、社長がグラスを置いた。
「三次会、仲ちゃんの店に行こう」
思い立ったらすぐ行動。社長らしい。五十代半ば、昭和の気風をそのまま着て歩いているような人だ。恩を受けたら返す。それだけの話だ、と顔に書いてある。
社長の気迫に押されるように、私と高橋、そしてアルバイトの三人組も顔を見合わせて、ほぼ同時にうなずいた。
店を出ると、年末の冷たい空気が酔いを一気に引き戻した。年の瀬の繁華街は仕事から解放された多くの人で賑わっている。
「タクシー止まらないですね……」
目の前を行き交うタクシーの行灯はどれも消灯している。業を煮やした社長が腕時計を見て言う。
「歩こう。十分くらいでしょ」
私は社長と高橋の横に並んで仲村さんの店を目指す。
「ほんと、仲村さんが来てくれてよかったよ」
社長は今年を振り返るように夜空を見上げる。
少し歩いたところでふと振り返ると、アルバイトたちの姿が見えない。
「まさか帰ったのか?」と高橋が言う。「さすがZ世代だな」
「来てほしかったけどね」
と社長は少し悲しげな表情を浮かべた。
私は歩きながら、どうにも腑に落ちなかった。
昼間の仕事はさておき、彼らは仕事が終わると、私が事務所にこもっていても必ず帰りの挨拶をしにやってくる。無言で帰る姿が想像できなかった。
「きっと来ますよ。まだタクシー探してるんでしょう」
私の口から無意識に言葉が漏れた。
「非効率だな。こんな夜に止まるわけがない」
高橋は即座に切り捨てる。
「理由はどうあれ、それが彼らなりの選択です」
「まぁ、私たち三人だけでも顔を出そう」
社長が前を向いたまま言い、私たちもついていく。
仲村さんの店が見えてくる。繁華街の裏手にある店の前には数人の人影があった。よく見るとアルバイトの三人組が店に入るのを躊躇っている。
「なんで俺たちより早いんだよ……」
高橋が呆然とつぶやく。
「来るって言ったでしょ」
タクシーを待つという選択が運よく功を奏したらしい。私は内心ホッと胸をなで下ろす。
「早かったな――」
私が声をかけると、三人は軽く会釈しながらこちらを振り向いた。
「タクシーなかなか来なくて焦りました」
互いに顔を合わせて笑う彼らの姿が、とても愛らしくみえた。
店に入った瞬間、仲村さんは目を丸くした。それから、照れたように笑った。カウンターには最後の客が帰ろうと立ち上がったところだった。
「最後にここで飲みたくてね」
社長の言葉に、仲村さんも「どうぞ、座って」と優しく席を促す。
私は少しだけ、この工場の未来を楽観した。
みんなが同じ速さで歩かなくても、みんなが同じ方角を向いてさえいれば、きっと前に進んでいけるんだろう。
小さなバーに、温かい笑い声が流れ込み、年末の夜は更けていった。
※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『蛍雪の功』
その夜、世界はあまりに静かだった。
窓の外では、音もなく降り積もった雪が月光を跳ね返し、うっすらと部屋の中を照らしている。書斎の机に置かれた古いランプは、もう何年も油を差されていない。今の私には、この月明かりと雪の照り返しがあれば十分だった。
私は、開いたままの古いノートを指でなぞる。そこには、私の筆跡ではない端正な文字が並んでいた。
私には、二十代半ばまでの記憶がほとんどない。
医者は「心因性の記憶喪失」だと告げたが、原因となるような事件も事故も、公的な記録には残っていなかった。ただ、ある日気がつくと、私は見知らぬ病院のベッドに横たわっており、それ以前の人生を失っていた。
唯一の手がかりは、退院時の荷物に紛れ込んでいた、ボロボロに使い込まれた数冊の参考書と、このノートだけだ。
「これを見て、何かもっと思い出せればいいのですが」
当時の担当医が同情を込めて言った言葉を、今でも思い出す。だが、ノートに記された数式や難解な古典の注釈を眺めても、思い浮かぶのは言いようのない焦燥感だけだった。私は、自分が何者であったかを知るために、そして、失われた空白を埋めるために、ただひたすらに学問に没頭した。皮肉なことに、記憶はなくても、知識を吸収する回路だけは身体が覚えていた。
「君の集中力には、いつも驚かされるよ」
現在の職場の同僚は、よくそう言って私を冷やかす。
昼夜を問わず研究に明け暮れ、わずかな明かりさえあれば本を読み耽る私の姿は、周囲から見れば『蛍雪の功』を地で行く苦学生の成れの果てのようだったろう。
『蛍雪の功』とはしばしば美談として語られるが、その根底にあるのは凄まじいまでの『飢え』だ。私にとって、学ぶことは教養のためではない。自分の空虚を満たすための、唯一の方法だった。
足跡ひとつない雪原は、何も書かれていない真っ白なページのようだ。そこにいた私を、今の私はもう見ることはかなわない。
ふと、ノートの余白に、薄く鉛筆で描かれた小さな絵があることに気づく。それは、黒く塗りつぶしたような歪な楕円形をしていた。汚れかと思っていたが、月の明かりが差した瞬間、それが『蛍』を象ったものだと直感した。頭の奥で硬い氷が割れるような音がする。
――暗いね。でも大丈夫。雪が降れば、窓際で本が読めるから。
聞き覚えのある声が、耳の奥で反響する。
それは私の声のようであり、私ではない誰かの声だった。
視界が歪み、書斎の風景が、もっとずっと狭くて冷たい部屋へと変貌していく。
そこは、山あいの古い木造家屋の一室だった。電気が引かれているものの、支払いが滞っているのか、電球は灯らない。
インクのシミに汚れた私の小さな指先は今よりもだいぶ痩せ細っていた。
隣にいる人影の顔は思い出せない。しかし、窓の外の雪を見ながら聞こえてくる声には覚えがあった。
「ねぇ、こっちへおいで。ここなら少し明るいから本が読めそうだ。頑張らないと。二人でもっと明るいところに行くために」
その言葉は、呪いのように、あるいは祈りのように私の胸に刻まれていたのだ。
私たちが重ねた努力は、知識への欲求などではなく、ただ、凍えそうな夜を生き延び、ここではないどこかへ辿り着くための足掻きだった。
輝かしい青春などではなく、泥を啜るような困窮と、それを分かち合った『誰か』との約束。
気がつくと、私は書斎の片隅でノートを抱きしめたまま震えていた。
窓の外には相変わらず真っ白な雪が降り積もっている。
「……そうか」
私は、ようやく理解した。
私が記憶を失ったのは、おそらく、その『約束』を果たせなかった絶望を認めたくなかったからだ。
共に雪明かりで机を囲んだあの人は、もうどこにもいない。私だけが、あの夜の執着だけを抱えたまま、空っぽの器として生き延びてしまった。
窓を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込み、私の火照った頬をなでた。
月は、高く、冷たく、すべてを等しく照らしている。
私のこれまでの努力も、失われた約束も、これから続く孤独な研鑽も。
私は、机の上にあるペンを手に取った。
ノートの空白に、新しい文字を書き込む。
それは学問の知識ではない。今、この瞬間に感じた、雪の冷たさと、月の青さ。
失われた過去は戻らない。共に歩んだ人の顔も、名前もこの雪の底深くに埋もれている。
けれど、私の指先に残るインクの香りだけは、確かにあの夜から繋がっている。
蛍雪の功――。その言葉の本当の意味を、私は今、ようやく知った気がする。
それは成功への階段ではなく、暗闇の中で、消え入りそうな光を必死に繋ぎ止めるための、孤独な誓いのことなのだ。
まだまだ夜は長い。
私は再び、月明かりの下でノートを開いた。
たとえ、その先に誰も待っていなかったとしても、私は書き続け、学び続けなければならない。
あの夜、雪の反射を頼りに、明日を信じた自分のために。そして、あの人のために。
#雪明かりの夜
久しぶりの『クジラの落とし物』更新です。
もう長らく更新していないので、第一話からのあらすじも併せて。
【第六話までのあらすじ】
崩壊目前の仮想世界でNPCとして生きるセイナとマドカは、川を流れる「優先搭乗券」を拾う。新世界への移行を夢見て「世界の端」を目指すが、NPCでは通ることのできない見えない壁に阻まれる。村で娘・ホヅミを探すプレイヤー・ユミと出会い、搭乗券の持ち主である『ユト』がホヅミを捜索していることを突き止める。
一行はユトがいる『クジラの丘』へ向かうも拒絶され、一時避難した教会でホヅミの歌声が入った音声データを発見。データ転送に巻き込まれる形で『祝福の湖』へと飛ばされ、崩壊しかけた女神と対峙する。
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第七話『偽りのクジラ』
私は森の中にぽっかりと空いた穴のような湖を前に、しばらく呆然としていた。
祝福の湖――。噂には聞いたことがあった。プレイヤーのランクに応じて、願いを叶えてくれる女神。その声は聞き惚れるほどに美しいと。だが、いま私たちの目の前にいるのは、顔の半分をバグに侵食され、擦れたテープのような声を発する『女神だったもの』の姿だった。
「苦しいわよね……」
隣でユミがつぶやいた小さな声に、私の胸が痛む。その声は目の前の女神に充てられたようであり、病床に眠るホヅミの姿もちらつかせた。
『エラー、ユーザー……認識、不能……』
静まり返った森に響くノイズ混じりの声に、言いようのない恐怖を覚える。
マドカが私の服の袖をぎゅっと掴んだ。相変わらず冷たいその指先がわずかに震えているようだった。
「ねえ、セイナ……これ、本当に女神様? 壊れたおもちゃみたいだけど」
「……ひどいバグね」
この世界に居続ける者の成れの果てを見るようで、私は思わず息を呑んだ。
『未登録……データ、排除……』
「待って、私たちは――」
否定しようとした言葉が違和感にかき消される。懐の『優先搭乗券』が、女神の放つノイズに共鳴するように熱を帯びた。
女神の首が鈍い音を立てながら不自然に傾き、目から放たれた青白い光がカードと私の姿を交互になぞる。
『ID照合……完了。……ユト……。クジラ。……おかえりなさい、ませ……』
「いま……、なんて?」
私は呆然と立ち尽くした。霧が晴れるように女神の敵意が消えていく。代わりに、静かで無機質な『歓迎』の空気が辺りを満たす。
「……ねえ、セイナ。いまの聞いた?」
マドカの声が、妙に明るく弾んだ。彼女は恐る恐る私の影から顔を出すと、バグった女神をまじまじと見つめた。
「『ユト』って言ったよね? この女神様、なんか勘違いしちゃってるみたい」
「ダメよ、本当のことを言わなきゃ……」
「本気で言ってる?」
マドカが私の前に回り込み、その瞳を爛々と輝かせた。
「これって、最高のチャンスじゃない。このままユトのふりをすれば、クジラの丘にだって入れるかもしれない」
「でも、もしバレたら……」
「バレるも何も、この世界はもうバグりかけなんだよ。正直に生きても消えちゃうんなら、嘘でも生き延びる方がずっと賢いと思わない?」
マドカはそう言うと、わざとらしくコホンと咳払いをして、女神に向かって胸を張った。
「えぇ、女神様。私たちはユト御一行よ! 訳あってこんな姿だけど、本物なんだから。さあ、クジラの丘に帰らせて!」
マドカの変わり様に半ば呆れながらユミの方を振り返ると、ユミは苦しげに胸元を押さえて膝をついていた。
「ユミさん!?」
「大丈夫……少し目眩が……」
そう言って顔を上げたユミの声は掠れていた。女神の顔を見つめるユミの顔は、まるで死の縁に伏す愛する人を見つめるような、悲痛な光を湛えている。
「行きましょう……。もう、私たちには時間がない。お願い……私を、ホヅミのところに……」
ユミの声に切実な想いが滲む。
私は唇を噛み締め、手の中の搭乗券を強く握った。
「……わかりました。女神様、私たちをクジラの丘に……」
言葉にした瞬間、心臓が軋むような音を立てた。自分ではない誰かを名乗ることへの、生理的な拒絶反応。けれどそれ以上に、私の魂の深い場所が、ユトに会うことを望んでいた。
『要望を……受理します。……ランク証明の……再発行を実行……』
女神が両手を広げた。その指先から放たれた青白い光が、私たち三人を包み込む。
「痛ッ――」
その瞬間、まるで全身の皮膚の下を、無数の針が這い回るような感覚に思わず声が出る。
ふと自分の左手首を見ると、そこにはクジラの尾を模したような、歪な光の紋章が刻まれていた。それは脈打つように赤く点滅し、ノイズを撒き散らしている。
『さよう……なら、この世界に……祝福を……』
女神の姿が、最後の一言とともに湖の霧のなかに消えていった。
同時に、世界が大きく揺らぐ。足元が軽くなり、私たちは真っ逆さまに、光の穴へと吸い込まれていった。
鼻先に甘い鼻の香りがかすめ、頬を暖かい風が撫でる。ゆっくりと目を開けるとそこには晴れ渡る青い空と緑の丘が広がっていた。
丘には立派な家々が、互いの資産と心の余裕を競い合うように広く間を取って建ち並んでいた。見上げれば、薄い絹のような雲が漂う空には、大きな月が微かに見える。未だにデータの塵を吐き出し続け、すでに半分ほどがえぐれていた。
「……ここが、クジラの丘?」
マドカが真っ先に立ち上がり、ドレスの砂を払って感嘆の声を上げた。
「ユミさん、大丈夫――」
私はユミに手を貸そうと彼女に手を差し伸べた。しかし、そこで目にしたのは、まるであの女神のように体の節々にノイズの走る、ユミの姿だった。
遠い日のぬくもりを思い出そうとして
何も浮かばないということがあるだろうか。
もしそんな事があればそれは絶望だ。
そして私はいま、その絶望のなかにいる。
思い出そうと記憶の壺に手を入れて探ってみても、そこにあるのはただの空気。空振るばかりで具体的な映像が浮かんでこない。
全く誰の愛情を受けてこなかったというわけでもない。
両親共働きで鍵っ子だったが、夕食の時間は遅くなっても食卓はいつも家族全員で囲んでいたし、衣食住に困ることもなく、大学まで通わせてもらった。
幼い頃に遊んだ顔もいくつか思い浮かぶ。かつての恋人も。でも、具体的にいつ『温かさ』を感じたかと問われれば、ここだと言える確信がない。
ざっくりと全体を囲ってしまえば、それをぬくもりと呼べるのかもしれないが、もやもやと漂う湯気のようで具体を持たない。
そもそも私にははっきりと思い出せる幼い頃の記憶が数えるほどしかない。
事故で記憶を失ったとか、強く頭を打ったということも、大きなトラウマがあるというわけでもない。
ただ単に長年記憶の棚卸しを怠ったせいで、次々に入ってくる『覚えなければならないこと』に圧縮され、手の届かないほど壺の底に追いやられてしまった。
それはきっと、人との深いつながりを避けてきたからに他ならない。
保育園、小中高校、大学、社会人になってからも、卒業する度に人間関係はリセットされ、会わなくなれば連絡も取り合わなくなる。
定期的に会って昔の話などすれば、沈んだ記憶も浮き上がってくるものだろうが、そうでなければ沈みっぱなしになるのは当然だ。
もともとマルチタスクができない人間だ。細いパイプをいくつも張り巡らせるなんて妙技は到底かなわず、一人に全集中して太いパイプをつなげてしまう。私のエネルギーを注ぐためのパイプを。
一人に意識が向かえば、それまで向き合っていた人に背を向けることになる。意識の外に出てしまった人の影は、再び視界に入るまで、また記憶の奥底に追いやられていく。
私は温かい人間でありたい。
『温かい』というのはそれだけでポジティブな言葉だ。
『温かい』をネガティブな意味で使う場面が思い浮かばない。それは『温かい』ことが『生きている』ことと同義だからだろう。
私はいま『生きている』だろうか。
『温かさ』を保てているだろうか。
自問は尽きない。
それでも確かなのは、私の心臓がいまも動いているということだ。熱を持った血液は休むことなく全身を巡っている。
遠い日のぬくもりとは、過去に『生きていた』自分の熱であり、『生かしてくれた』周りの体温だ。
自分の心臓がまだ動いているということは、これまでの人生のすべてにおいて、ずっとどこかが温かかったということだ。
具体的に思い出せなくてもいい。家族で囲んだ食卓や、友人や恋人の笑った顔は、私の脳裏にぼんやりとした湯気のように残っている。それが私の『ぬくもり』の正体だとしても、否定される筋合いはないのだ。
私の心臓は動いている。
いまはこの身の『温かさ』をどう残し、伝えられるか。自分を生かすこと、誰かを温めること。それを考えよう。
#遠い日のぬくもり
もう3日も筆が止まっている。
いや、動かしても像を結ばないと言うべきか。
お題からストーリーを組んでみてもどうにも納得がいかない。
書いているものをいったん離れて眺めてみて、結局何が書きたかったんだろうと途方に暮れる。
仕上がったものが何も伝えてこない。
こうして書いている『いま』も、お題を無理やり組み込めないかと悪あがきをしている。
『降り積もる想い』を『光の回廊』から眺める私の横で『揺れるキャンドル』の火。
取ってつけたようなお題の存在が妙に浮いて、ひとつの粗が目につけば全てが不完全に見える。
そうこうしている内にも、お題は次から次へとやってきて、書かなきゃいけないことがたまっていく。
書くことが義務になってることに気づく。
これはお題の呪いだ。
お題のためだけに生まれた舞台が、台詞が、人物が、形になる前に死んでいく。
ごめんよ、生かしてやれなくて。
でも歪な形で世に送るくらいなら、いっそ破り捨てたほうがいい。
この3日間、そんな事ばかり考えていた。
こんな愚痴っぽいことを言ったところで、どうにもならないことくらい分かっている。
全ては無意味なこだわりと、自意識の過剰さのせいだ。
書きたいことがないなら無理して書く必要はない。
書くために寝る時間を削る必要はない。
書けないなら一旦筆を置いてもいい。
そんな当たり前のことも甘えや逃げに思えてくる。
分かっていた。
もともと筆不精を克服したいと始めたこと。
とにかく書くんだと自分を追い立てていたこと。
分かりきっていたんだ。
筆が止まったときに自分を責めてしまうことも、
いったん筆を置いたら、再び手にするまでに時間がかかることも……。
書くことに理想を追いすぎた。
書くことに意味を求めすぎた。
書くことに義務を課しすぎた。
何にそこまで追い詰められる必要があろうか。
何故それほどまでに縛られる必要があろうか……。
少し心に余裕が持てるようになるまで、しばらくお題から距離を置こうと思う。
お題から浮かぶものがあれば書くし、そうでなければ書きたいことを書くだけだ。
書きたいことがなければ、その日見たものを書こう。
書く習慣って本来そういうものだろうし、お題はあくまで筆を執るためのヒントだから。
必ずしもそれに従う必要はない。
自分で自分を責めるのもやめよう。
だから最後に、書けなくなった私へ。
書くことを嫌いになるな。