結城斗永

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※この物語はフィクションです。登場する人物および団体は、実在のものとは一切関係ありません。
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タイトル『蛍雪の功』

その夜、世界はあまりに静かだった。
窓の外では、音もなく降り積もった雪が月光を跳ね返し、うっすらと部屋の中を照らしている。書斎の机に置かれた古いランプは、もう何年も油を差されていない。今の私には、この月明かりと雪の照り返しがあれば十分だった。
私は、開いたままの古いノートを指でなぞる。そこには、私の筆跡ではない端正な文字が並んでいた。

私には、二十代半ばまでの記憶がほとんどない。
医者は「心因性の記憶喪失」だと告げたが、原因となるような事件も事故も、公的な記録には残っていなかった。ただ、ある日気がつくと、私は見知らぬ病院のベッドに横たわっており、それ以前の人生を失っていた。
唯一の手がかりは、退院時の荷物に紛れ込んでいた、ボロボロに使い込まれた数冊の参考書と、このノートだけだ。
「これを見て、何かもっと思い出せればいいのですが」
当時の担当医が同情を込めて言った言葉を、今でも思い出す。だが、ノートに記された数式や難解な古典の注釈を眺めても、思い浮かぶのは言いようのない焦燥感だけだった。私は、自分が何者であったかを知るために、そして、失われた空白を埋めるために、ただひたすらに学問に没頭した。皮肉なことに、記憶はなくても、知識を吸収する回路だけは身体が覚えていた。

「君の集中力には、いつも驚かされるよ」
現在の職場の同僚は、よくそう言って私を冷やかす。
昼夜を問わず研究に明け暮れ、わずかな明かりさえあれば本を読み耽る私の姿は、周囲から見れば『蛍雪の功』を地で行く苦学生の成れの果てのようだったろう。
『蛍雪の功』とはしばしば美談として語られるが、その根底にあるのは凄まじいまでの『飢え』だ。私にとって、学ぶことは教養のためではない。自分の空虚を満たすための、唯一の方法だった。
足跡ひとつない雪原は、何も書かれていない真っ白なページのようだ。そこにいた私を、今の私はもう見ることはかなわない。

ふと、ノートの余白に、薄く鉛筆で描かれた小さな絵があることに気づく。それは、黒く塗りつぶしたような歪な楕円形をしていた。汚れかと思っていたが、月の明かりが差した瞬間、それが『蛍』を象ったものだと直感した。頭の奥で硬い氷が割れるような音がする。
――暗いね。でも大丈夫。雪が降れば、窓際で本が読めるから。
聞き覚えのある声が、耳の奥で反響する。
それは私の声のようであり、私ではない誰かの声だった。
視界が歪み、書斎の風景が、もっとずっと狭くて冷たい部屋へと変貌していく。

そこは、山あいの古い木造家屋の一室だった。電気が引かれているものの、支払いが滞っているのか、電球は灯らない。
インクのシミに汚れた私の小さな指先は今よりもだいぶ痩せ細っていた。
隣にいる人影の顔は思い出せない。しかし、窓の外の雪を見ながら聞こえてくる声には覚えがあった。
「ねぇ、こっちへおいで。ここなら少し明るいから本が読めそうだ。頑張らないと。二人でもっと明るいところに行くために」
その言葉は、呪いのように、あるいは祈りのように私の胸に刻まれていたのだ。
私たちが重ねた努力は、知識への欲求などではなく、ただ、凍えそうな夜を生き延び、ここではないどこかへ辿り着くための足掻きだった。
輝かしい青春などではなく、泥を啜るような困窮と、それを分かち合った『誰か』との約束。

気がつくと、私は書斎の片隅でノートを抱きしめたまま震えていた。
窓の外には相変わらず真っ白な雪が降り積もっている。
「……そうか」
私は、ようやく理解した。
私が記憶を失ったのは、おそらく、その『約束』を果たせなかった絶望を認めたくなかったからだ。
共に雪明かりで机を囲んだあの人は、もうどこにもいない。私だけが、あの夜の執着だけを抱えたまま、空っぽの器として生き延びてしまった。

窓を開けると、冷たい空気が部屋に流れ込み、私の火照った頬をなでた。
月は、高く、冷たく、すべてを等しく照らしている。
私のこれまでの努力も、失われた約束も、これから続く孤独な研鑽も。
私は、机の上にあるペンを手に取った。
ノートの空白に、新しい文字を書き込む。
それは学問の知識ではない。今、この瞬間に感じた、雪の冷たさと、月の青さ。
失われた過去は戻らない。共に歩んだ人の顔も、名前もこの雪の底深くに埋もれている。
けれど、私の指先に残るインクの香りだけは、確かにあの夜から繋がっている。

蛍雪の功――。その言葉の本当の意味を、私は今、ようやく知った気がする。
それは成功への階段ではなく、暗闇の中で、消え入りそうな光を必死に繋ぎ止めるための、孤独な誓いのことなのだ。
まだまだ夜は長い。
私は再び、月明かりの下でノートを開いた。
たとえ、その先に誰も待っていなかったとしても、私は書き続け、学び続けなければならない。
あの夜、雪の反射を頼りに、明日を信じた自分のために。そして、あの人のために。

#雪明かりの夜

12/26/2025, 7:34:46 PM