祖母の家の二階には、長いあいだ誰も足を踏み入れていない部屋があった。障子越しの光は白く、空気はどこか時間そのものが澱んでいるようだった。私は引っ越しの手伝いを頼まれ、その部屋の押し入れを開けた。
段ボール箱の奥に、古い裁縫箱があった。木製で、角は丸く擦り切れている。蓋を開けると、糸巻きや針山に混じって、一本のリボンが静かに横たわっていた。淡い空色。今はもう、空とも海ともつかない色だ。
指で触れた瞬間、不思議と胸が締めつけられた。
なぜだろう、と考えるより先に、背後から声がした。
「それ、まだ残ってたのね」
振り返ると、祖母が立っていた。ゆっくりと近づき、私の手元をのぞき込む。
「捨てちゃだめよ。それはね……」
祖母は畳に腰を下ろし、遠くを見るような目で語り始めた。
そのリボンは、祖母が若かったころ、母のために結んだものだった。初めて一人で町を出る日、駅へ向かう母の髪を、何度も結び直したという。ほどけないように、でもきつくなりすぎないように。
「行ってしまえば、もう戻らない気がしてね」
祖母は笑ったが、その声は少し震えていた。
母は振り返らずに歩いていった。電車に乗り、仕事を見つけ、家庭を持ち、やがて私を連れて帰省するまで、長い年月が流れた。その間、祖母はこのリボンを裁縫箱の底にしまい、時折取り出しては、そっと撫でていたのだという。
私はリボンを受け取り、手首に巻いてみた。少し短く、無理をすれば食い込む。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。
翌日、私は人生を左右するかもしれない面接を控えていた。眠れない夜、布団の中で手首のリボンを指でなぞる。祖母の若い手、母の背中、まだ不安で満ちている自分。そのすべてが、細い一本の線で結ばれているような気がした。
面接当日、電車の窓に映る自分の顔は、思っていたよりも強張っていた。それでも、手首のリボンが視界に入るたび、胸の奥が少しだけ落ち着いた。私は一人ではない。そう言われているようだった。
結果の連絡が来たのは、数日後の午後だった。
合格。短い文字列なのに、指先が震えた。
祖母の家に戻り、裁縫箱の前でリボンをほどく。手首には、わずかな温もりと、薄い跡が残っていた。それは消えていく運命の痕跡でありながら、確かにここにあった証だった。
時は決して戻らない。
けれど、誰かが誰かを想い、結んだ気持ちは、形を変えながら受け継がれていく。
私はそのリボンを、小さな箱の上にそっと結んだ。
いつか、また誰かが迷い、不安に立ち止まったときのために。
時を結ぶための、一本のリボンとして。
12/21/2025, 1:52:42 AM