。。

Open App



暮れの空は青かった。
淀みのない瑠璃色に、星が点々と砕け散る。

私は咳払いをひとつして、霜の降りた引戸に手を掛けた。がたついた音が、薄ら暗い部屋に哀しく響く。灯りもとぼしいその奥で、彼は黒い背中を丸めて微動だにしない。

床を軋ませ歩み寄っても、こちらを振り返ることはなかった。何本もの銀糸が張り巡らせているような冷たい緊張に満ちている。

彼は細身の顕微鏡を器用に扱い、黒い漆塗りの器を神妙にのぞき込む。手もとにはピンセットと半紙が無造作に重ねられて、細筆の穂先は墨で固まりかけているようにもみえた。

今宵もまた、雪の結晶を写し取っているのか。
もう溶けているだろうに。

灯明皿に消えかけの火が点り、その縁には小さな蛾の死骸が静かに置かれていた。


「おい、」


声をかければ、うめくような返事があがる。私が来たのだとわかればこれ以上の反応を示さない。


「今朝方、母君が亡くなったよ。」


微かに気配の揺れた気がした。「そうか」と呟いたきり、凍てつく沈黙が薄闇を縫う。
私はまた、ため息をつくことすら憚られる衝動を押さえ込むことになる。

二年前の淡雪の夜、良い縁談を蹴って女中の娘と駆け落ちした彼を、私は何もいわずに見送った。

その後まもなく、流行り病で彼女を失ったときいて
彼のもとを訪れるようになったが、彼の生活に歪はなく、平常を保っているかのようにみえていた。

「もう行く宛てもないことだし。」と、柄にもなく微笑む姿には、こちらもさすがに同情した。

ただ、雪の降る夜になると、彼はそれを黒い布で受けとめて、ピンセットで慎重につまみ、黒い漆塗りのなかで観察するようになった。薪ストーブには埃が積もり、雪を口に含みつつ顕微鏡をまわすのだ。

明けも暮れも雪の結晶を観察し、描きとめる。
氷りついたその生を削るように。

椿油と墨の混じる匂いが、この部屋の暗さをいっそう深淵に引きずり込む。
来る冬も来る冬も、なぜ単なる友人である自分がこんな思いにさせられるのか、腹立たしかった。


「君はいつまでそうやって──」

「苦しんではなかったか。」


思いがけず、私の声に彼のそれが重なった。
彼はこちらに向き直ると、私の顔をじっと見据えた。


「静かに逝けたのだろうか。」

「──それはわからない。君の妹から聞いただけだから。ただ……」


射るような視線にこたえるように、
私は静かに息を吐き出す。


「ただ、君に戻ってきてほしかったようだよ。」


ちらちらと頼りなげに揺れる火が、彼の生白い頬に薄く影を落としていた。

誰の言葉でもなかった。
彼の母は穏やかに息を引き取ったと聞いていて、
妹やその他親族は、彼の顔を見たくもないのだと、知っていた。

彼の顔に微笑みはなく、しばらく黙って私を見つめていたが、その視線をまた顕微鏡に戻す。
誰のものでもない言葉の澱が、私の胸にしんしんと降り積もる。

床に打ち捨てられた半紙には、待雪草が描かれていた。


              『降り積もる想い』

12/22/2025, 9:58:16 AM