17才のクリスマスイブ、私はコペンハーゲン空港に
取り残された。
家族と諸事情でデンマークに訪れていて、その事情にさらに事情が重なりといろいろあったのだけれど。
とにかく、両親が先に日本に帰ってしまったのだ。
ベツレヘムの星を目指すがごとく燦然と飛び立つ飛行機をみて、私は絶望に輪郭があるのを知った。
その後、「自分の殻を敗れ!」と父からスマホにメッセージが入っていたけれど、誤字だし。よりにもよって負けているのがいっそう煩わしい。
望みが絶たれるなんて大袈裟な字面にみえるが、実際にそれに近い状況に立たされると、クリスマスツリーの白い天使も可愛らしいニッセも、途端にただの人工的な静物にしかみえなくなった。
北欧の冬にぶくぶくとしたコートを着て寒がっている私自身が、鏡に写すまでもなく愚かな生き物に感じられてならなかった。
とにかく今晩の寝る場所を探さなくてはならない。
異様に冷めきった頭で、それだけははっきりとしていた。
ロビーには私ともう1組、ビジネスクラスに搭乗予定であった日本人夫婦がいた。こちらも事情があり、空きが出るのを願って明日の便で帰ることになったらしい。
どちらから先に声をかけたとかもない。
異国の風が自然と背中を押すように、私たち3人は自己紹介もままならないまま、コペンハーゲンで結束した。
とりあえず、タクシーでホテルへ向かおうという話になった。
ご主人がタクシーを呼んでくれ、その間私と奥さんはカフェの近くのベンチで待つ。お手洗いに行ったり奥さんとおしゃべりをしたりして空港の夜を過ごした。
タクシー代を確認してみると、あろうことか現金を所持していないことに気づいた。今まで親から渡されたカード便りだったのだ。
日本に帰ったら必ずお返しすることを伝えると、
「いいのよ!困ったときはお互い様だから!」と。
その後タクシーが到着し、私たちは慌ただしく乗り込む。向かう先は、朝方に空港までのバスがでるホテルらしく、それで明日は行きましょうという話をした。
タクシーの荒い運転に揺られながら、私は冷たい窓ガラスの向こうの何もない夜をみていた。
今までも「何とかなるか」の精神でのらりくらり生きてはきた。しかし、その「何とかなるか」でぎりぎり保てるかどうかわからない橋の上に、北欧の地で立たされている。現実にしては感触がなく夢にしてはハードだ。
そうしてぼーっと窓の外を眺めていたら、「はい!」と奥さんから何かを差し出された。
「これさっきのカフェのなんだけど、これでも飲んでリラックスしましょ!」
渡されたのはホットチョコレートだった。
いつの間にか買ってくれたのか。思いがけずに満ちた甘い香りを、反射的に受け取った。
「さっき約束したから、ご馳走させて。」
奥さんのこの言葉の意味を思い返しても、やはりホットチョコレートをご馳走してもらうような約束をした覚えはない。
私は「ありがとうございます」としか言えなくて、今のこの気持ちをそれでしか表せない言葉の窮屈さがもどかしく、指先から伝ったぬくもりは今でも残り続けている。
初めて、流れる夜の景色が瞳に灯るのを感じた。
翌朝、私たちは無事に空港までたどり着き、
その日のうちに奇跡的に飛行機に空きがでて、日本に帰ることができた。夫婦とはそこで別れになった。
薄暗い北欧の夜に差し込んだ、太陽のようなご夫婦。自分がこの先どういう進路を歩むか悶々としていたあの時期に、どの道を選んでもこういう大人でありたいと思わせてくれた。
何年経っても忘れ得ない、
遠いぬくもりの日の思い出。
暮れの空は青かった。
淀みのない瑠璃色に、星が点々と砕け散る。
私は咳払いをひとつして、霜の降りた引戸に手を掛けた。がたついた音が、薄ら暗い部屋に哀しく響く。灯りもとぼしいその奥で、彼は黒い背中を丸めて微動だにしない。
床を軋ませ歩み寄っても、こちらを振り返ることはなかった。何本もの銀糸が張り巡らせているような冷たい緊張に満ちている。
彼は細身の顕微鏡を器用に扱い、黒い漆塗りの器を神妙にのぞき込む。手もとにはピンセットと半紙が無造作に重ねられて、細筆の穂先は墨で固まりかけているようにもみえた。
今宵もまた、雪の結晶を写し取っているのか。
もう溶けているだろうに。
灯明皿に消えかけの火が点り、その縁には小さな蛾の死骸が静かに置かれていた。
「おい、」
声をかければ、うめくような返事があがる。私が来たのだとわかればこれ以上の反応を示さない。
「今朝方、母君が亡くなったよ。」
微かに気配の揺れた気がした。「そうか」と呟いたきり、凍てつく沈黙が薄闇を縫う。
私はまた、ため息をつくことすら憚られる衝動を押さえ込むことになる。
二年前の淡雪の夜、良い縁談を蹴って女中の娘と駆け落ちした彼を、私は何もいわずに見送った。
その後まもなく、流行り病で彼女を失ったときいて
彼のもとを訪れるようになったが、彼の生活に歪はなく、平常を保っているかのようにみえていた。
「もう行く宛てもないことだし。」と、柄にもなく微笑む姿には、こちらもさすがに同情した。
ただ、雪の降る夜になると、彼はそれを黒い布で受けとめて、ピンセットで慎重につまみ、黒い漆塗りのなかで観察するようになった。薪ストーブには埃が積もり、雪を口に含みつつ顕微鏡をまわすのだ。
明けも暮れも雪の結晶を観察し、描きとめる。
氷りついたその生を削るように。
椿油と墨の混じる匂いが、この部屋の暗さをいっそう深淵に引きずり込む。
来る冬も来る冬も、なぜ単なる友人である自分がこんな思いにさせられるのか、腹立たしかった。
「君はいつまでそうやって──」
「苦しんではなかったか。」
思いがけず、私の声に彼のそれが重なった。
彼はこちらに向き直ると、私の顔をじっと見据えた。
「静かに逝けたのだろうか。」
「──それはわからない。君の妹から聞いただけだから。ただ……」
射るような視線にこたえるように、
私は静かに息を吐き出す。
「ただ、君に戻ってきてほしかったようだよ。」
ちらちらと頼りなげに揺れる火が、彼の生白い頬に薄く影を落としていた。
誰の言葉でもなかった。
彼の母は穏やかに息を引き取ったと聞いていて、
妹やその他親族は、彼の顔を見たくもないのだと、知っていた。
彼の顔に微笑みはなく、しばらく黙って私を見つめていたが、その視線をまた顕微鏡に戻す。
誰のものでもない言葉の澱が、私の胸にしんしんと降り積もる。
床に打ち捨てられた半紙には、待雪草が描かれていた。
『降り積もる想い』
谷間の雪は夏でも溶けないのか。
どうしてそんな話になったのか。
覚えているのは、洞窟の匂いと君の顔。
あの夏、僕は海辺に君を誘った。
脊椎カリエスだからという君を、無理やり外に連れ出した。融通のきかない君の親を、困らせてやりたかったからというのもある。
真昼なのに、暗がりの気配のある空だった。
僕たちは砂の上に腰かける。
海に沈みこむ鈍色の光が、君の頬のやつれを浮かび上がらせる。
しばらくそうやって眺めていたけれど、
もっと君をあやしげなところに連れていきたくなった。
遊泳禁止エリアの岩場に洞窟があり、
僕はそこへ行こうと君の手を引いた。
暗がりの潮溜まりに足をつけると、君の肩が震えた。海水の冷たさに馴れていないんだろう。
洞穴はひやりとして狭かった。
晴れの日に雨宿りをしているような、妙な心地だ。
ここまでおとなしかった君が、「帰りたい」と初めて呟く。
「夏なのに凍えるようだよ、ここは。海じゃなくて冬の山だ。」
「何だよ、いつももっと暗くて湿っぽくて、それこそ雪山みたいなところに閉じ籠ってるだろ。」
僕が言うと、君はそっぽを向いてしまった。
「母さんにこのことが知られたら、君のせいにするからな。」
「かまわないよ。」
そこで僕らは黙り込んでしまった。
僕には君の背中が歪んでいるようにはみえない。
そう言うとまた怒るんだろう。
この背骨のでこぼこを触ってみろと、
君も同じようなのかと、その琴線に触れてしまうのだ。これ以上母を苦しませないために。
岩から伝う雫が足元に落ち、静寂に波紋を描いてゆく。
──谷間の雪は夏でも溶けないんだろうか。
それは多分君の言葉だった。でも、僕も似たようなことを考えていた気がする。
切り取られた夕闇の海を臨みながら
君はもう、ここにいないような人の気がしてならなかった。
君の横顔は夜の雪山のように厳かで、
吐く息すら白くみえた。
『白い吐息』
そいつの横顔はいつも鋭かった。
己が不当な道で食っていることに、それなりの覚悟でもあったのか。
窓のない部屋に籠り、凍てつかせるような眼をして、筆をとる手はいつも微かに震えていた。
息をのむような絵を描く男だった。
しかし、贋作師だ。
案外の高値がついてしまうそれらは、本来市場価値のない代物であるのに、そいつの生み出す絵は確かに生きていた。弛みのない鮮やかさが、苦しいほどだった。
今でも眼を閉じると、あの薄暗い秘密の厨房が思い起こされる。
濃い油とインクの匂いに満ちて、そいつは骨張った背中を丸めている。
天井から吊り下げられた真鍮のランプシェードが、首筋の白さを仄かに浮かび上がらせていた。
靄のかかる冬の朝、昨晩の酒の悪酔いが覚めないまま、俺は何気なくそいつの厨房を訪ねてみる気になった。
そいつは珍しく暇をしていたみたいで、気前よく出迎えてくれた。残り少ない煙草もくれて、久しぶりに味わった。
「この冬の寒さは堪えそうだな。」
「うん、そうだな。もう雪のちらつく空をしている。」
とりとめのない会話がぽつぽつと生まれては途絶え、その繰り返しに時折胸のつまる思いがする。
ただ、そいつの青白い顔に滲んでいたのが、あまり見たことのないような穏やかなものだったので印象に残っている。
いつも筆を握る指には煙草が挟まれていて
乾いた唇の隙間から煙を細く燻らせる。
俺は、なぜかその光景を虚しく思った。
吸い込んだ煙の行き場をなくして、ふと、いつもどのように絵を描いているのかと、聞いてみた。
そいつは伏し目がちの目をこちらに向けることもなく、静かに口の端で微笑んだ。
時を止めて春を望む
雪原に桜を描き、花びらが土に落ちるのを見る
そういう作業さ、と事も無げに言った。
俺はしばらくその言葉の真意を探ってみようとしたが、解りかねることを悟ってやめた。
その年は、記録的な寒波に見舞われて死人の多い冬になった。俺は父が体調を崩したのを機に田舎に戻り、そいつからは病の知らせが届いたきり会っていない。
そいつの絵は、その圧倒的な技術の高さに価値を見いだされたのか、物好きなコレクターらからは一定の指示を得るようになったらしい。
しかし、あれから取り残された思いがある。
あの冬の朝、暗がりの厨房でふと抱いた虚しさが潰えることはなかった。
そいつが、どのように絵を描いているかなど本当は気にならないことだった。
あの時俺は、なぜ贋作を描き続けるのかを聞きたかったのだ。
お前ほどの観察眼と気力を持つ人間が、淡々と偽のものだけを生み出すために、その命を削るほどの大義でもあったのかと。
時を止めた冬に、春は永遠に来ない。
そいつはやはり静かに微笑むのだろう。
唇の隙間から、冷たい煙を燻らせて。
「時を止めて」
あの人の指先や睫毛が気になりだしたとき、金色の風が町をめぐっていたけれど。ひやりと胸に落ちた甘い香りは、冬の来る前に消えてしまった。
『秋恋』