sairo

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手のひらに収まるほど小さな箱。中に入っていた白い貝殻に、恐る恐る指先を触れさせた。

「なんで……これ……」

忘れることのできない、遠い過去が脳裏を過ぎる。
青の海。青の空。白い砂浜で二人、時を忘れて遊んだ幸せな思い出。
胸の苦しさに耐えるように、箱を抱き締め俯いた。

――約束。

懐かしい声が、耳の奥で響く。潮騒と混ざり合い、幼い頃の記憶を鮮やかに浮かばせる。
思わず閉じた瞼の裏で、小さな影が手を差し出した。

――これは友達の証。それから約束の印。

その手には、白く可愛らしい貝殻。指切りの代わりに、交換した大切なもの。
あの日、大好きだった友人と、ひとつの約束を交わした。
交わしたはずだった。

「約束……」

腕の中で、箱の中の貝殻が小さく音を立てる。
約束だと、笑う声を覚えている。あの日の海や空の姿も、潮騒も霞むことはない。

けれど何を約束したのか。自分は何を交換したのか。記憶は朧気で酷く霞んでいた。
箱を見つめ、机の上へと視線を移す。あの日の海や空を思わせる青いリボンと包装紙を認めて、眉を寄せた。
それらは、ほんの少し前まで手の中の箱を彩っていたものだった。

そこでようやく、この箱の異様さに気づく。
気づけば机の上に置かれていた、綺麗にラッピングされていた箱。その中に収まっていた、引き出しの奥にしまわれていたはずの貝殻。
箱に気づいた時、怖いとは感じなかった。開けなければという気持ちが込み上げ、戸惑いもなく箱に手を伸ばしリボンを解いていた。
ふるり、と肩を震わせる。
誰がこの箱を置いたのか。この貝殻は、あの日に交換した貝殻なのか。
箱を机の上に置く。震える手で、机の引き出しを開けた。
奥にしまわれていた古ぼけたお菓子の缶を取り出し、二を開く。知ることを怖れるように一度目を閉じ、一呼吸してゆっくりと目を開いた。

「ない……」

缶の中には、何もない。ならば箱の中の貝殻は、本当にあの日交換したものなのだろう。
缶を戻し、引き出しを閉める。
箱に手を伸ばしかけ、その無意識の行動に愕然とした。大切な思い出であるはずの貝殻が、途端に怖ろしいもののように感じ、後退る。
とん、と下がる足が部屋の扉に当たり、その瞬間、強い目眩を感じて目を閉じた。

「――っ」

ぐるぐると、世界が回っているかのような浮遊感。立っていられずに蹲り、目眩が治まるのを只管に待った。
不意に、潮騒が聞こえた気がした。波が引くように目眩もまた引いていき、そっと目を開ける。

「海……?でも、なんで……」

眼前に広がるのは、約束を交わしたあの懐かしい海。
記憶の中で青く煌めいていたはずの海は深い黒を宿して、寄せては返す波がまるで手招いているかのようだ。
呆然と見上げた空は、月のない夜に染まっている。細々とした星明かりが夜の昏さを際立たせていた。

「約束」

そっと背後から囁く声に、息を呑んだ。
懐かしい海で聞こえる、懐かしい声。けれども今、振り返るのが恐い。
小さな影が、動けずにいる自分の横を通り過ぎる。
夜の暗さは影の輪郭すら曖昧にしている。それなのに影が手にしているものは、机の上に置いたはずの箱だと、何故か確信していた。

「これは友達の証。それから約束の印」

正面に立つ影が、箱を差し出す。暗闇の中で貝殻の白がぼんやりと浮かび上がり、苦しさを覚えた。

「受け取れない」

首を振る。

「約束を覚えていない。交換できるものもない」

込み上げる涙を、唇を噛みしめることで堪えた。
不思議と恐怖はなく、あるのは空しさは悲しみだけだ。

「約束」

影が囁く。手を取られ、半ば無理矢理に箱を渡される。
嫌だと拒もうとすることを許さないと、箱を強く握らされた。

「忘れたなら、思い出して」

顔を覗き込まれ、間近で見る目の真っ直ぐさに肩が震えた。幼い眼は、瞬きをする旅に成長し、今の自分の姿と変わらない程までになっていく。

「贈り物の形で記憶を揺さぶったんだから、ちゃんと受け取って思い出して……もう一度、この海に来るの。私の宝物《おまもり》を持って、戻ってきてよ!約束なんだからっ!」
「あ、あぁ……」

かちり、と音が聞こえた気がした。途端に忘れていた記憶が、自分の中で溢れかえる。

約束をした。必ず戻ってくると。
走り回れる程元気になって、大切な貝殻《おまもり》を返しにくると、確かに約束をしたのだ。

「戻っておいで。ちゃんと待っていてあげるから。いつまでも待つから」
「うん……うんっ!絶対、帰ってくるから」

じわりと視界が滲む。友人の笑顔が見えなくなっていく。
ゆっくりと離れていく友人の手首に巻かれた青いリボンを認めて、笑みが浮かんだ。

「もしもまた忘れそうになったら、同じように贈り物の形にして思い出させてあげる。青いリボンを解いて、箱の中の貝殻を見れば、こうして思い出せるから」
「大丈夫。もう忘れたりしないから」

笑いながら目を閉じる。
箱を抱き締め、耳を澄ませた。
潮騒が遠くなり、代わりに無機質な電子音が近くなる。弱々しいながらも、確かに胸の鼓動を感じる。
強い目眩がした。箱を抱き締め、浮遊感に耐える。

音が近い。意識を向ければ、さらに音が近づく。
閉じた瞼の向こう側で、微かに光を感じた。光を追いかけ手を伸ばすように、光の先を意識して――。

目を開けた。





泣きそうな母の顔が見えた。
目が合って、驚いたように目を見張った母の口元が何かを語りかけている。
まだ聞こえない。けれど見えている。

もう大丈夫。
根拠のない確信に、微かに笑みを浮かべてみせる。

青いリボンが巻かれた、贈り物の中の約束を思い出したのだから。

だから自分はもう、大丈夫だ。



20251202 『贈り物の中身』

12/4/2025, 8:42:39 AM