「鍵はこの家のどこかにあるよ。頑張って探してね」
そう言って笑いながら消えた彼女を思い出し、何度目かの溜息を吐く。
探し始めて何時間が経過したのだろうか。広い家の中から、小さな鍵を見つける。途方もない行為に、最初から無理だと察してはいたが、やはり手がかりひとつ見つからない。
近くの椅子に腰掛け、眉間に刻んだ皺を伸ばしつつ目を閉じる。
もう、諦めてしまおうか。
何度も込み上げた気持ちを、何度も同じように否定する。
諦める訳にはいかない。
鍵がなくとも、生きることに支障はない。しかし、鍵がなくては生きる意味がないのだから。
「――探すか」
椅子から立ち上がり、もう一度鍵を探し始める。
玄関。リビング。キッチン。
棚の上や引き出しの奥まで、探せる場所はすべて探した。ほんの僅かな隙間さえも、隅々まで確認した。
やはり鍵は見当たらない。そもそも本当はこの家に鍵はなく、彼女が持っているのかもしれない。
ベッドに倒れ込み、溜息を吐いた。
やはり諦めるべきなのだろう。これ以上鍵を探しても、空しさが広がるだけだ。
横になったまま手を伸ばし、サイドテーブルの引き出しを開けて中から箱を取り出した。
手の中に収まる程度の小さな箱。鍵穴を一撫でして、眉を下げ笑う。
「いい加減に手放せって……そういうことなんだろうな」
探している鍵は、この箱の鍵だ。鍵を失って開けられず、中身に触れられなくなった箱を暫し見つめ、体を起こした。
そっと箱に手をかけた。開かないとは分かっている。ただ諦める切っ掛けがほしかった。
「――え?」
けれども想像を裏切り、箱は小さな音を立てて開いた。中には古ぼけたいくつもの写真。そして探していた鍵と、一枚の手紙。
震える手で手紙を取り出し、ゆっくりと開く。中には彼女の字で。
――記憶には、鍵がかからない。
ただ一言、書かれていた。
「やっと見つけた。このまま諦めちゃうのかなって思ってたよ」
いつの間にか彼女はベッドの傍らに立ち、開いた箱の中身を見て笑う。
「これは流石に、狡くない?」
箱を開けるための鍵がその箱の中に入っているなど、考えもしなかった。思わず愚痴を溢すが、彼女は声を上げて笑うだけで気にする様子はない。
「狡くない。ちゃんと家の中にあったでしょ?」
そう言って止める間もなく手を伸ばし、箱の中の写真を取り出した。
一枚、一枚。懐かしむように目を細めながら写真を見つめる。時折こちらを見ては、意味ありげに笑った。
「何?不気味なんだけど」
「別に?体だけは大きくなったなって……中身はあんまり変わらないのにね」
揶揄いではなく、只管に優しい声音で彼女は呟く。何枚かの写真を目の前に並べて、指で指し示した。
「諦めないでくれてよかった。大切な記憶なんだから、簡単に手放そうなんて考えちゃだめだよ」
「昔の記憶なんてさっさと手放してしまえって意味かと思ってた」
「そんな訳ないでしょ。これらを手放してしまったら、あなたはあなたじゃなくなっちゃうじゃない。過去があって、あなたはこうしてあなたとして今ここにいるんだから」
彼女の言葉を聞き流しながら、目の前の写真に手を伸ばした。
幼い頃の家族写真。まだ何も知らずに幸せに笑っていられた記憶を思いながら、一枚手に取り眺め見た。
「こんな痛いだけの記憶なんかなくても、生きていけるのに」
「お馬鹿さん」
無意識に呟いた言葉に、彼女は溜息を吐きつつ背を叩いた。急な衝撃と痛みに前のめりになりながら不満を込めて彼女を見つめれば、もう一度溜息を吐かれた。
「記憶がなかったら、自分が分からなくなるじゃない。さらに痛みが強くなるだけで、その内何で生きているのかも分からなくなっちゃうわ」
そう言って彼女は優しく笑う。何も言えなくなってしまった自分を寝かしつけて、広げた写真を丁寧に箱に戻していく。
最後に箱を箱を締め、引き出しにしまう。鍵はかけていない。箱の中に隠してあった鍵は、彼女の手の中に収まっていた。
「思い出に鍵なんていらないでしょ?勝手に消えたり、誰かに取られることなんてないんだから……だから鍵はまた、私がどこかに隠しておいてあげる」
優しく頭を撫でられて、急な眠気に目が閉じていく。静かな部屋にそっと子守歌が響き渡る。
「おやすみなさい……あの人のこと、憎まないでいてくれてありがとうね」
「憎んではないけど、大嫌いだよ」
子守歌の合間の囁きに、眉を顰めて呟いた。
微睡む意識で、ふと思う。
彼女は一体誰なのか。
子守歌。触れる手の温もり。あの人。
過ぎていく記憶に、一つの形が浮かぶ。それが正しいのか、それとも誤りなのかは分からない。
ただ彼女の笑顔は、幼い頃に見たアルバムの中の、母の若い頃の姿によく似ていたから。
「おやすみ……かあさん」
そっと呟く。
撫でる手がさらに優しくなって、褒めてもらえたようで笑みが浮かんだ。
聞こえるアラームの電子音に、微睡む意識が浮かび上がる。
目を開ける。自分以外誰もいない部屋に何故か違和感を感じながら体を起こした。
アラームを止めて、部屋を見渡す。いつもと変わった様子はない。
首を傾げながらもベッドから抜け出し、大きく伸びをする。軽く頭を振って、眠気を散らした。
「そう言えば……」
ふと直前まで、何か夢を見ていたことを思い出す。詳しくは覚えていないが、何かを必死に探している夢だった。
「何、探してたんだっけ?」
思い出そうとすればするほど朧気になる夢に、溜息を吐いて思い出すのを諦める。きっと昼頃までには、夢を見たことすら忘れているだろう。
苦笑し、サイドテーブルの引き出しを開けた。奥に入っている一枚の写真を取り出す。
幼い頃、まだ母が生きていた時に撮った家族写真。笑っている両親と自分を見ながら、同じように笑ってみる。
今ではこんな風に無邪気に笑うことも、父に会うことすらもなくなってしまった。
「――さて、今日も一日、頑張るか」
写真を引き出しの中にしまい、自分に言い聞かせるように呟いた。
何故だろうか。今日はとても気分がいい。
今なら何年も会っていない父と、感情的にならずに話ができるかもしれない。
そんなことを思いながら、スマホを取り出した。
20251124 『君が隠した鍵』
11/26/2025, 9:48:06 AM