結城斗永

Open App

タイトル『喧騒は雪の中に』

 世界は、濁った音に溢れていた。
 渋谷駅のハチ公口改札前は、帰宅を阻まれた人々の怒号と、駅員が繰り返す無機質な謝罪のアナウンスがぶつかり合い、粘り気のある熱気に包まれていた。スマートフォンの通知音があちこちで電子的な悲鳴を上げ、誰かが撒き散らした苛立ちが、湿ったコートの匂いと共に充満している。

 二十八歳の冬、木下徹は、その喧騒の真ん中で立ち尽くしていた。
 手に持ったスマートフォンには、先ほど届いたばかりのメールが表示されている。三年かけて準備したプロジェクトの白紙撤回。そして、それと歩を合わせるように届いた、恋人からの別れを告げる短いメッセージ。
「……うるさいな」
 独り言は、誰かの怒鳴り声にかき消された。
 自分という存在が、都会の膨大なノイズの中に溶けて、薄まっていくような感覚があった。自分の声すら自分に届かない。徹は逃げるように人混みを掻き分け、スクランブル交差点へと踏み出した。

 その瞬間だった。
 視界の端で、雪が一枚、やけにゆっくりと落ちてきて、徹のまつ毛に触れた。
 冷たい、と感じた刹那。
 カチリ、と頭の中でスイッチが切り替わる音がした。
 すべての音が、消えた。
 いや、物理的に音が止まったわけではない。信号待ちで苛立つ車のクラクションも、大型ビジョンで流れる派手な広告映像も、背後で誰かが転んだ音も、すべてはそこにある。しかし、それらは徹の鼓膜に届く直前で、深々と降り積もる雪に吸い込まれ、霧散していった。

 徹は、交差点の真ん中で立ち止まった。
 周囲を見渡すと、スローモーションのような光景が広がっていた。口を大きく開けて誰かに詰め寄る男。不安げに肩を寄せ合う女子高生。彼らは懸命に何かを発信しているが、徹にはそれらが無音の映画のワンシーンに見えた。
 ――ああ……静かだ。
 次の瞬間、徹の感覚は異常なまでの鋭敏さを持って覚醒した。
 今まで聞こえなかった音が、驚くほど鮮明に脳内へ流れ込んでくる。

 サクッ。
 自分のブーツが雪を踏みしめる、微かな、しかし力強い感触。
 ビルの隙間を縫う風が、複雑な旋律を奏でながら通り抜けていく音。
 そして、何よりも。
 自分自身の心臓の鼓動。

 それは、世界から切り離された真空地帯に一人で立っているような感覚だった。研ぎ澄まされた視界の中で、空から舞い落ちる雪の結晶が、街灯の光を反射してダイヤモンドの粉のように輝いている。一つひとつの結晶が持つ、複雑な六角形の幾何学模様までが見えるようだった。

 不思議な全能感が徹を包んだ。
 さっきまで自分を押し潰そうとしていたプロジェクトの失敗も、失恋の痛みも、この圧倒的な雪の静寂の前では、取るに足らない小さな塵のように思えた。
「すべては――、ただの現象だ」
 徹の唇から漏れた言葉は、誰にも邪魔されることなく、自分自身の耳に真っ直ぐ届いた。
 雪は、街を汚す排気ガスも、アスファルトの無機質な硬さも、人間の醜い感情も、すべてを等しく白く塗りつぶしていく。それは拒絶ではなく、包容だった。
 徹は大きく息を吸い込んだ。冷たい空気が肺の隅々まで行き渡り、思考が氷のように透き通っていく。
 
 その時、不意に背後から強い衝撃を受けた。
「おい、邪魔だよ!」
 誰かの肩が激しく当たり、徹の体はよろめいた。
 その衝撃を合図に、堰を切ったように音が戻ってきた。
 大型ビジョンの低音、緊急車両のサイレン、遠くで響く誰かの泣き声。暴力的なまでの音の濁流が、再び徹の鼓膜を叩く。
 徹はゆっくりと体勢を立て直し、ぶつかってきた男の背中を見た。男は顔を真っ赤にして、スマホに向かって怒鳴り散らしながら去っていく。

 以前の徹なら、その怒りに同調して気分を害していただろう。だが、今の彼は違った。
 耳元を吹き抜ける喧騒は、もはや彼を侵食することはなかった。
 彼の内側には、先ほど触れた絶対的な静寂が、確かな核となって鎮座していた。どんなに周囲が騒がしくとも、自分の中にだけは、誰も踏み込めない聖域がある。
 徹はポケットの中で、冷たくなったスマートフォンを握りしめた。
 液晶画面は相変わらず絶望的な通知を表示し続けているが、彼はもう、それを恐れてはいなかった。
 一歩、足を踏み出す。
 サクッ、というあの音が、雑踏の中でもはっきりと聞こえた。
 
 雪はまだ、しんしんと降り続いている。
 都会が呼吸を止め、静寂が支配するその刹那を胸に抱いたまま、徹は迷いの消えた足取りで、白銀の闇へと歩き出した。

#雪の静寂

12/18/2025, 7:31:38 AM