手を繋いで歩いていく。
ここがどこなのか、どこに行くのかは分からない。
ただ繋ぐ手の熱が、自分にとっての唯一で、すべてだった。
目を覚ます。
まだ薄暗い部屋の天井をぼんやりと見つめながら、低く息を吐いた。
夢を見ていた。
一本道を、手を引かれながら只管に歩いている夢。
辺りは薄暗く、手を引く誰かの姿すら見えない。覚えているのは、引かれている手の熱くらいなものだ。
繋がれていた手を上げ、目の前に翳す。
今は繋がれていない手。だが夢の中では、確かに繋いでいた。
もう一度息を吐いて、手を下ろす。
変な時間に目が覚めてしまったせいで、夢と現実との区別がはっきりとしないのだろう。
そう結論付けて、目を閉じる。
もう一度夢に落ちていく刹那、するりと誰かに手を繋がれた感覚がした。
久しぶりに、幼い頃に住んでいた街を訪れた。
特に目的があった訳ではない。強いて言えば、この辺りで一番大きな神社の祭りを懐かしく思ったからだろうか。
浮き足立つような周囲の空気を感じながら、神社へと向かい歩いていく。幼い頃の記憶はかなり朧気で、知っているはずの街並みが、全く知らない景色に見えた。
「早く行こうよ!今回はぼくたちの番なんだから!」
「う、うん。でも……」
「怖くないって。かみさまに手を引いてもらえたら、とってもいいことがあるんだって、ママが言ってたよ」
子供たちが神社へと走っていく姿を見送りながら、まだ続いている祭事を思い目を細めた、
この街で七つを迎える子供は、神社の参道を一人で歩かされる。そこで手を引いて一緒に歩いてもらうことができたのなら、その子供は怪我や病気なく過ごせるのだと古くから言い伝えられてきた。
実際に友人たちも皆、七つになって祭の時に本殿へと向かう長い山道を一人で歩いた。その時に、誰かに手を引いてもらえたのだと話していたのを思い出す。
自分も皆と同じように、七つになった年に参道を歩いた。けれどもどれだけ歩いても、誰かに手を引かれることはなかった。
だからだろうか。病弱な体は入退院を繰り返し、数年後には緑豊かな田舎へと引っ越した。
誰にも繋がれていないはずの手に視線を向ける。最近は誰かに手を引かれる夢ばかり見る。その影響なのか、ふと気づくと誰かと手を繋いでいる感覚を覚えるようになった。
「神様に、手を引いてもらえたのなら……」
先ほど走って行った子供たちの言葉を呟いて、苦笑する。
病を克服し、制限なく動けるようになった今でも、幼い頃の記憶はなくならないらしい。
自分だけ、手を引かれなかったこと。自分だけ皆と一緒に学校を卒業できなかったこと。
今更なことを思いながら、神社に背を向けた。
縁日を冷やかしてもいいが、久々の遠出だったからかやけに疲れている。神社の祭りも数日かけて行われるため、今日でなければならないという訳でもない。
神社へ向かうのは明日にして、この後は宿でゆっくり過ごしたい。
予約していた宿に向かう途中、ふと誰かに手を繋がれた気がした。だが視線を向けても、やはり誰の姿も見えなかった。
手を繋いで歩いていく。
薄暗い山道。ここはどこで、どこへ行くのかは分からない。
視線を向けた手は、確かに誰かと繋がれている。その姿は見えない。誰の手なのかと注視すると、その手は途端に霞みぼやけてしまう。
何も言わず、視線も向けずに、山奥へと向けて進んでいく。
ふと誰かに名を呼ばれた。手を繋ぐ誰かではない。もっと先、進む細道の先で呼んでいる。
呼ばれているのだから、早く行かなければ。足を速めようとするが、繋ぐ手がそれを許さない。
速すぎず、遅すぎることもない。変わらない歩みに、急いた心が次第に落ち着いていく。
そんなに急がずとも、こうして向かっているのだから必ず辿り着くはずだ。落ち着く心は再び急くこともなく、道のりを楽しむ余裕まで持たせている。
繋ぐ手の熱が心地好い。優しく暖かなそれを話さないように、繋ぐ手に力を込めた。
「っ!……また、夢が……」
目が覚めて、暗い天井を見つめ息を吐いた。
手を上げ、眼前に翳す。誰にも繋がれていない手。熱の名残を感じて落ち着かない。
ふと声が聞こえた気がした。物音に掻き消されてしまうほどの微かな声。呼ばれているようで、さらに落ち着かなくなる。
「行かないと」
耐えられず、体を起こし身支度を整える。音を立てぬよう注意しながら、そっと部屋を抜け出した。
声を辿って辿り着いたのは、祭を行っているはずの神社だった。
声はもう聞こえない。人のいない神社はひっそりと静まりかえり、夜の暗さと相俟ってどこか不気味さを漂わせていた。
戻るべきかを悩む。そもそも呼ばれた気がしたからといって、こんな所まで来る必要はあったのだろうか。冷静な思考が、恐怖を掻き立て身を震わせた。
戻ろう。そう思い振り返る手に誰かが触れた気がした。
「――っ!?」
視線を向けても、誰の姿も見えない。それなのに手を引かれた感覚と共に、体が勝手に歩き出す。
神社の参道。恐怖と戸惑いの感情を置き去りに、体は迷うことなく足を踏み入れる。瞬間に灯籠に火が灯されて、連なる鳥居と奥へ続く参道を照らした。
そのまま手を引かれ、ゆっくりと歩いていく。奥へと進む程に恐怖は薄れ、残るのは不思議な安堵感だ。
「どこへ行くの?」
夢の中では口にできなかったそれを問いかける。
答えはない。それに不満を覚えることもなかった。
いずれは辿り着くのだから、無理に聞く必要はない。
そんなことを思っていれば、逆の手も同じように繋がれた。
視線を向ける。暗闇にぼんやりと浮かぶ、大きな誰かの姿に、無意識に笑みが溢れ落ちた。
反対の手を見れば、小柄な誰かの姿が浮かんでいる。嬉しくなって、ふふ、と小さく声が漏れた。
手を繋ぎ三人で歩いていく。
やがて鳥居を抜けて、本殿へと辿り着いた。
手を離される。代わりに背を押され、一歩前へと歩を進めた。
本坪鈴の紐を掴み、ゆっくりと鳴らす。からん、からんという音を聞きながら、静かに礼をした。
柏手を打ち、再び礼をする。特に願うことはなく、何気なく浮かんだ言葉を口にする。
「ありがとう」
神にではなく、手を繋いでくれた誰かに向けた言葉。
すっ、と胸が軽くなり、後ろを振り返ると深く礼をした。
「本当にありがとう」
感謝の言葉を繰り返す。顔を上げれば、するりと手が繋がれ、参道を戻っていく。
入口まで戻れば、再び手を離された。背を押され、そのまま歩き出す。
帰らなければ。自分はもう、手を引かれなくとも歩いていけるほど、成長したのだから。
「行くのか」
不意に声をかけられ立ち止まる。気づけば目の前に、白い狐が座っていた。
「もう一度やり直すこともできる」
狐の言葉に、引かれていた手を見つめ、そして振り返る。連なる鳥居の向こう側で、寄り添う男女の影を認め、緩く首を振った。
「大丈夫。ずっと手を繋いでもらっていたから。だからここにはもう、帰ってこない」
「そうか」
自分の答えに狐はそれ以上何も言わず、鳥居の向こう側へと去っていく。その背を見つめ前を向けば、柔らかな風が頬を撫でて過ぎていく。
「取りこぼしてしまい、すまなかった」
微かに聞こえた声に、可笑しくなって小さく笑いが溢れ落ちた。
カーテン越しの、朝の陽射しに目が覚める。
夢を見ていた。どんな夢だったのかは思い出せない。
起き上がり、何気なく手を見つめた。仄かな温もりを感じた気がして、穏やかな心地に目を細めた。
「ありがとう」
覚えてはいないけれど、とても温かな夢だった。微かに残る夢の断片が、それを伝えてくれている。
ベッドを抜けだし、カーテンを開いた。外は快晴。抜けるような青空の向こうで、白い雲が流れている。
まるで白い狐が駆け抜けているようだ。
「頑張って」
忙しそうな狐の形をした雲に声をかければ、その白い尾が揺れたような気がした。
20251121 『夢の断片』
11/23/2025, 9:13:18 AM