sairo

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口を開き、息を吐き出した。
喉は震えない。ただ息が溢れ落ちるだけ。

「大丈夫。必ず治るよ」

優しく頭を撫でて姉は言う。それに小さく頷きを返すものの、それを心から信じられるほど子供ではなかった。

声は出ない。
きっと二度と歌えないのだろう。

喉に手を当て、何度か呼吸を繰り返す。
心配そうにこちらを見つめる姉に、へらりと笑ってみせた。
不思議と悲しみは強くはない。
声が出なくても、歌えなくても、生きていくことはできる。誰かに何かを伝える手段は、他にもある。
そんなことを思いながら、今にも泣きそうな姉へと手を伸ばし、そっと頭を撫でてみる。驚いたように目を見張った姉は、次の瞬間にはくしゃりと顔を歪めて一筋涙を溢した。

「馬鹿っ。私の心配じゃなくて、自分の心配をしなさい!あなたはいつもそうやって……」

言葉を詰まらせ俯く姉に戸惑い、慌てて頭から手を離した。恐る恐る顔を覗き込もうとするが、その前に腕を掴まれ強く抱き締められる。

「こういう時はね、泣いてもいいの。我慢なんてしなくていいんだから」

震える声に、苦笑する。
別に我慢をしている訳ではない。ただ本当に、悲しさがないだけだ。
代わりに胸の中にあるのは、不思議な安堵だけ。安らぎにも似た穏やかさだけだった。
姉の背をさすりながら、それが何故かを考える。すぐに出てきた答えに、密かに苦笑した。
これ以上歌いたくなかったのだ。ひとりきりで、届かない歌を歌い続ける苦しさに耐えられなかった。
いつも姉が褒めてくれる歌は、鎮魂の歌だ。本来ならばいくつもの響きが重なり、切なる祈りを紡ぐもの。
幼い頃は、何も知らずに歌えていた。けれどいつからか、歌と共に浮かぶ光景に、胸が苦しくて堪らなくなった。
優しい人たちが去っていく。歌声がひとつ、またひとつ減って、最後には何も聞こえなくなっていく。
白く鋭い煌めきを遮るように抱き締められ、空からいくつもの赤い花が降り続く。
ただの夢だと思っていた。けれども何度も見る夢は、繰り返す度に輪郭をはっきりとさせ、今では本当との区別がつかないほどだ。
誰かの記憶。歌に刻まれた光景が浮かぶ度に、本当は泣きたくて仕方がなかった。

「本当に頑固ね。このままだと、本当に泣きたい時に泣けなくなっちゃうわよ」

顔を上げた姉に額を小突かれて、肩が跳ねる。
姉の目に、涙はない。呆れたような、悲しむような目と視線が交わり、何故か後ろめたさを感じてしまう。
思わず視線を彷徨わせれば、姉は優しく微笑んで柔らかく抱き締めてくれた。

「無理に泣けって言っている訳じゃないけどね。いつも泣きそうなのに泣かないのだもの。今くらいは、声が出ないせいにして泣いてもいいと思うわ」

ひゅっと息を呑んだ。
何かを言わなければと口を開き、音のない吐息が溢れ落ちる。姉の眼差しに痛みを覚えて、逃げるように強く抱きついた。

「ごめんね。もっと早くに、歌わなくていいよって言えばよかった。歌に救われていたからなんて、なんの言い訳にもならないのに」

背を撫でる優しい手の温もりに、静かに目を閉じる。
暖かい。とくとく、と聞こえる力強い鼓動の音が、痛いほどに嬉しくて堪らなかった。

「いつも皆のために歌ってくれてありがとう。必ず治す方法を見つけるから、それまではゆっくり休んでね」

包み込まれるような温もりに、意識が微睡んでいく。
薄く開いた唇が吐息を溢す。ありがとうの言葉ひとつすぐに伝えられなくなったことに、ようやく気づいた。
一筋、頬を滴が伝う。遠く姉の歌声を聞きながら、ゆっくりと意識が沈んでいった。



不思議な夢を見た。
赤い花が咲き乱れる木の前で、誰かが歌っている。
辿々しい旋律。歌い慣れていないのだろう。時折音を、歌詞を誤っては、けれどそれを気にすることなく歌い続けている。
ここからはその表情は見えないが、歌声はどこか楽しげだ。その姿は時に霞み、花開くように輪郭を濃くしていく。歌に呼応するように花の赤が空に溶け出して、白くなった花がぽとりと地に落ちた。
空に溶けた赤は歌声となって、誰かの歌に重なり響き合っていく。花が落ちる度に誰かは受け止め、花の赤が歌へと変わっていく。
それをただ見ていれば、誰かがこちらを振り向いた。
懐かしい。繰り返し見た夢で抱き締められた温もりを思い出す。
花になった人。祈りにすべてを捧げるのではなく、祈る人々にすべてを捧げた優しい人。
誘われるように、足を踏み出した。ふらふらと近づいて、木の前で静かに膝をついた。
手を組み、目を閉じる。聞こえる歌声に重ねるように、口を開いた。
声は出ない。ただ吐息を歌に重ねていく。失ってしまった響きを、空に溶かしていく。
不意に肩に誰かの手が置かれた。目を開けて視線を向ければ、美しい着物を纏った姉が静かに微笑んでいた。

「我らの祈りを忘れず、その身に宿してくれたこと。その献身に深く感謝します。時代も立場も違えど、絶えぬ思いを知ることができ、とても嬉しく思いました……本当にありがとう」

促され、立ち上がる。歌い続ける誰かを見つめ、姉と共に深く礼をした。

「誰かのためにと無理をする必要はないよ。自分の祈りは終わったのだから、後は好きに生きるのが一番いい」

顔を上げた自分の前に、赤が抜けた白い花を差し出された。怖ず怖ずと花を受け取れば、寄り添う姉は再び礼をした。

「言葉は時と共に戻るだろう。けれど歌はどうなるかは分からない。この子は祈り終えてしまっているからね」
「ご慈悲に深く感謝致します」

凜とした姉の所作に、どこかの姫のようだとぼんやり思う。こちらに視線を向けて微笑んだ姉はとても美しかった。

「参りましょうか」

姉の言葉に頷いて、赤い花と誰かに背を向け歩き出す。
歌声が辺りに響き、それが見送ってくれるようで何故か胸が熱くなった。

「場所も時代も違えど、祈りは同じか。あの時の彼が知ったらどう思うのかな」

意識が沈む間際、小さな呟きが聞こえた気がした。





「おはよう」

微笑む姉に、頷きを返す。
声はまだ戻らない。それを少しだけ惜しく思いながら席についた。

「もうすぐ出来上がるから、待っててね」

マグカップを手渡す姉に、大丈夫だと笑ってみせる。頭を撫でて戻っていく姉の背を見ながら、湯気を立てるマグカップの中のホットミルクに息を吹きかけた。
姉は今日も忙しそうだ。それでもとても楽しそうにしている。
少し調子の外れた歌声に、思わず溢れた笑いを噛み殺す。代わりに、その歌にそっと吐息を重ね合わせた。
歌と息が響き合い、懐かしい旋律が部屋を満たしていく。

例え声が戻っても、歌うことはないのだろう。
それでも、こうして重ねることはできることが、今はなによりも幸せだった。



20251129 『失われた響き』

12/1/2025, 6:38:08 AM