〈透明な羽〉
その天使は神に逆らった。
天使の使命は、死んだ人間を神の元へ連れていく事だ。魂が地上に留まり、生きている人々に害を与えることを防ぐ為には無くてはならない仕事だ。死すべき定めの人間が地上に生まれたその日から、天使達は淡々と死者を導いてきた。
その天使も何百年もの間仕事をしてきた。仕事を辞めるという考えなど頭に浮かんだことはなかった。
ある日、彼はいつものように地上へと降り立った。今日連れていくのは小さな男の子だった。長い間手術を繰り返したが、その甲斐なく命を終わろうとしていた。仕事内容を神から告げられた時、いつものように胸がズキっと痛んだ。どうしてだか彼には分からなかった。神を手伝うためだけに生まれた天使は感情を持たないはずだから。
病室の小さなベッドの側には母親らしき女性が座っていた。殺風景の部屋に響く心音は弱々しく、今にも命が終わろうとしていることを告げていた。
「お母さん、あそこに天使が立っているよ」
男の子がほとんど聞こえないような小さな声で呟いた。母親はただ、取り止めもなく涙を流していた。また胸がズキっとした。
「僕ぐらいの年齢に見えるけど、髪の毛も服もすごく綺麗で、大きな羽があって。でも、何だか悲しそう」
天使は思わず耳を疑った。これまでこの姿を見て恐れる人や感謝する人、見惚れる人は沢山いたが、「悲しそう」という言葉は初めて聞いた。
「ねえ、天使さん。どうしてそんなに悲しそうなの?」
その時彼は気がついた。自分にも人間のような感情があるという事を。いつものあの胸の痛みは「悲しい」気持ちだという事に。
彼は男の子に近づき、頭に手をかざした。ただ、いつものように魂を奪うことはせず、自分の持つエネルギーを送り込んだ。その途端、消えかかっていた心音が大きくなった。男の子も母親も思わず目を見張った。母親が呼んできた医者は、男の子をくまなく検査すると告げた。
「信じられない!腫瘍が綺麗に消えています。」
医者の言葉を聞くなり、男の子と母親は抱き合って喜びの涙を流した。
天使は自分の中に新しい感情が湧き出てきたのを感じた。それは「喜び」だった。自分がずっとやりたかったことはこれだとやっと気がついた。
満ち足りた気持ちで天に帰ると、身体が動かなくなった。神が恐ろしい顔で見下ろしていた。
「お前は使命を放棄し、地上の魂の流れを乱した。これは反逆罪に値する。もし、今すぐ地上に戻り、あの少年の魂を連れてくれば許してやろう。」
天使は静かに、しかし力強く首を振った。
「そうか。ならばお前のその羽を消す。これからは愚かな人間と共に汚い地上で生きよ。」
神が手をあげると、天使がいた雲が消えた。気がつくと彼は真っ逆さまに地上に落ちていた。急いで翼を動かそうとするが、動かない。振り返ると羽がみるみるうちに透明になっていく。完全に透明になった時、彼は地上に強く打ち付けられた。
目が覚めると知らない森の中にいた。羽はもう背中にはなかった。彼はとぼとぼと街に向かって降りていった。
「あの、貴方大丈夫?」
突然、女性に話しかけられた。何処かで会ったような気がしたが、今は記憶が曖昧で、思い出せなかった。
「どうしたの?お母さんとはぐれたの?」
彼は子供の姿をしており、しかもかつては綺麗だった白い服は、泥に塗れ、ところどころ破れている。迷子の子供にしか見えない。
「一緒に警察署に行こうか?」
彼は頷いた。もうどうにでもなれと思った。
母親の車に乗るとそこに家族写真が貼ってあった。それを見て思わず目を見張った。あの男の子だった。
「あの、この写真の子は貴方の息子さんですか?」
「ええ、そうだけど。もしかしてあの子のお友達?」
彼は熱心に頷いた。
「もし良ければ彼に会わせてください」
家に着き、母親がドアを開けるとおかえり、と元気な声が聞こえてきた。玄関に来た男の子が彼を見つけると、二人はしばらく見つめあった。
「もしかしてあの天使さん?」
彼は頷いた。男の子は目を輝かせた。
「ママ、この天使さんが僕を助けてくれたんだよ!あの時は本当にありがとう!僕、今すごく元気なんだ」
母親は困惑しているようだった。男の子が首を傾げた。
「でも、羽が無いね。どうしたの?」
「消えちゃったんだ。僕が悪い事をしたから。だから僕はもう天使じゃ無い。」
急に涙が出てきた。今まで溜めていた感情が溢れ出て、止まらなくなった。
「ああ、また天使に戻れたらな」
「羽が無くても天使にはなれるよ。ここではすごく良い人のことを『天使』って言うんだよ。」
その言葉は彼を温かく包んだ。
「分かった。じゃあ、『羽が無い天使』になってみる」
次の日街に出ると、そこには心に傷を負った人が沢山いるという事に気がついた。中には自分で命を断つ事を考える者もいた。彼はそういう人々の話を聞いた。人は話を聞いてもらうだけでも心が癒されるものだ。多くの人が彼の優しさに触れ、明るい表情を取り戻した。いつしか彼はこう呼ばれるようになった。「透明な羽を持つ天使」と。
11/9/2025, 10:03:45 AM