「0からの」
朝7時。私のスマホのバッテリーは、0%になった瞬間だった。
画面が真っ暗になる。通知、音楽、アラーム、何もかもが途切れる。
静かすぎて、自分の呼吸音さえ、やけに大きく聞こえた。
「…はは…」と笑ってしまう。
だって今日こそ、「もう何もかも終わりにしよう」って、決めた日だったから。
バイト先には「体調不良」で連絡済み。
両親には「しばらく旅行する」と、嘘をついている。
部屋の家賃もあと3日で滞納。貯金は、袋に入れた500円玉7枚と、千円札一枚だけ。全部0に近づいていた。それなのに、バッテリーが0になった瞬間、妙に「まだ足りない」と思った。
コンビニの袋を握りしめ、とりあえず外に出た。2月にしては暖かい日だった。コートを着るのも面倒で、Tシャツにパーカーを羽織っただけ。駅前ロータリーをぼんやり歩いていると、ふと、小さな女の子が目の前を横切った。
5歳くらいだろうか。緑のリュックを背負い、片手に風船を持っている。
「可愛いな」と微笑ましく見ていると、風船の紐が手からするりと抜けて、ふわっと浮かび上がった。
「あっ…!」
女の子が小さな悲鳴を上げる。
俺は反射的に手を伸ばし、風船の紐を指先で掴む。意外と簡単に掴めた。
「はい、どうぞ」
女の子に渡すと、彼女は目をまん丸にして俺を見上げた。
「おにいちゃん…スマホないの?」俺は急に言われて固まる。
「だって、すごく悲しそうな顔だよ」と彼女はとても心配そうに見つめる。
「まぁ…電池きれちゃってさ」
「そっかぁ…」というと、女の子は風船の紐をぎゅっと握り直した。
「じゃぁ、これあげる」そう言って彼女が差し出したのは、リュックに着いていた小さなキーホルダー。プラスチック製のちょっと色あせている星型。
「これね、0って書いてあって、0からはじめられるんだって、ママが言ってた」
俺は手に取って、掌の上で転がしてみた。本当に、小さく「0」と刻印されていた。
「ありがと」
「うん!バイバイ!」
女の子はぴょんぴょん飛び跳ねながら走っていった。
俺は立ち尽くしたまま、その星型のキーホルダーを握り続けた。
ゼロって、別に悪い数字じゃないのかもしれない。ただのスタート地点だ。
電池が0%になったスマホも、充電すればまた光る。
お金が0円になっても、1円から数えなおせる。
命だって、まだ息をしてる限り、0じゃない。
俺はゆっくりと息を吐き、袋の中のお金をもう一度数えた。
4500円。うち、千円札は一枚。
これで何ができるだろうか。とりあえず、100円のコーヒーでも買おう。そしたら、残り900円からのスタートになる。
俺は小さく笑った。「0からの、か…」と。
ポケットの中で、星型のキーホルダーが、俺の言葉に応答するように「カチッ」とかすかに鳴った。
(完) 雨夢 歌桜
2/22/2026, 8:59:58 AM