雨夢 歌桜 AMANE KAO

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2/24/2026, 12:26:07 PM

「小さな命」

雨がやっと止んだ牛後、駅前の歩道橋の下で、段ボールがひとつ、ぽつんと濡れていた。近付いてみると、中から小さな、かすかな鳴き声がした。
「にゃぁ...」
段ボールの隙間か隙間から真っ黒な子猫が一匹、震えながら顔を出した。まだ目もちゃんと開いていないような、とても小さな子だった。
片方の耳が少し欠けていて、尻尾はほとんど毛がなく、ピンクの皮膚が向き出しになっていた。
私はカバンからハンカチを出して、そっと子猫を包んだ。冷たかった。とても冷たかった。
家に連れて帰って、すぐにお風呂に入れてあげた。シャワーのお湯をいちばん弱くして、そっと体を温める。子猫は最初、怯えて体を丸めていたけど、だんだんリラックスして、私の手のひらの中で小さく呼吸するようになった。

ミルクをスポイトで少しづつあげると、ごくん、ごくんと喉を鳴らした。その音がやけに愛おしくて、胸が締め付けられるようだった。

獣医さんには「生きる可能性は極めて低いです。内蔵がかなり冷えてほとんどの機能が停止してしまっているし、栄養失調もひどい。正直、奇跡が起きない限り…」先生はそこで言葉を切った。

私は奇跡を信じて、毎晩三時間おきに起きてミルクをあげ続けた。仕事も休んで、LINEもほとんど見なかった。ただ、その小さな命が、朝まで息をしているかどうか、ただそれだけが大事だった。
ある夜中、いつものようにミルクをあげようとすると、子猫が初めて、弱々しく前足を伸ばして、私の人差し指を掴んだ。爪もほとんどない小さな前足だったけど、確かにぎゅっと握られた。その瞬間、波土が止まらなくなった。

「ごめん…ごめんね」

ずっとひとりで耐えてたんだね、ごめんね、と何度も何度も謝った。

それから三日目の朝。子猫は初めて「シャー」と小さな威嚇の声をあげた。私が近づきすぎたからだ。けど、その声が、すごく嬉しかった。
私はその子の名前を「クロ」と名付けた。在り来りだけど、それしか思いつかなかった。

クロは結局、生き延びた。
目は開き、耳は少しづつ毛が生えてきて、しっぽもふわふわになってきた。歩けるようになって、走れるようにもなって、ある日、私の膝の上で初めてゴロゴロと喉を鳴らした。

クロは今でも、雨の日は必ず僕の膝の上に乗ってくる。欠けた耳をビクビクさせながら、じっと僕の顔を見る。まるで言っているみたいに。
「大丈夫だよ、もう独りじゃないよ」って。

私はそっと、クロの小さな頭に頬を寄せる。

ありがとう、小さな命。
生きててくれて、ありがとう。

(完) 雨夢 歌桜

2/23/2026, 11:10:01 AM

「Love you」

夜中2時。とあるコンビニの駐車場に一台の軽自動車が止まっていた。エンジンは切れているのに、ヘッドライトだけが点灯したまま。
まるで「まだ帰りたくない」と主張しているみたいだった。

運転席に座っているのは、20歳の真衣香(まいか)。
膝の上にはスマホ。画面には、2時間ほど前に送ったまま既読がつかないメッセージがひとつ。

「Love you」

たったそれだけ。絵文字も句読点もつけなかった、裸の言葉。
真衣香はもう何度目か分からないのに、また画面を下にスワイプして、上にスワイプしてを繰り返す。既読はつかない。24時を過ぎてから、一度も動いていない。
隣の席には、さっき買ったストローが刺さったままのアイスコーヒーが転がっている。氷が溶けて、コップの底に薄い茶色の水溜まりができていた。

「…もういいよね」

自分に言い聞かせるように呟いたその声は、思ったよりも震えていた。
真衣香はスマホを助手席に放り投げた。投げた瞬間、後悔した。
画面が点灯して、通知が光った気がしたから。
慌てて拾い上げる。でも何も来ていない。ただロック画面の時計が、2時30分を示しているだけ。ため息をついてシートを倒す。
「Love you」って、いつからそんなに重い言葉になったんだろう。
昔は友達同士でも軽く言ってたのに。RAINの最後に「♡love u」なんて送ってた。けどそれが今は、まるで拳銃の引き金みたいに怖い。

真衣香は目を閉じた。まぶたの裏に、去年の夏の記憶が再生される。

海沿いの道をふたりで運転していた夜、信号待ちで彼が急に「真衣香ってさ、俺のこと好き?」って聞いてきた。
真衣香は照れ隠しで「は?なに急に」って笑った。
すると彼は少し寂しそうに、けど優しく、「俺は好きだよ。love you」と言った。その時の「love you」は、風船みたいに軽く、夏の夜の匂いがした。今はもう、その風船は萎み、タイヤに踏まれ、黒ずんだゴミみたいになっている。
スマホが震えた。真衣香の心臓が一瞬止まる。
恐る恐る画面を見ると、通知は「電池残量15%」だった。
「…はは」
乾いた笑い声が漏れた。
真衣香はそのまま、スマホの電源ボタンを長押しした。
「電源を切りますか?」の表示が出る。
指が止まる。3秒……5秒……。結局、キャンセルした。
代わりにRAINを開いて、さっきの「Love you」の下に、追記した。
「…嘘でも…良かったのに」
未だ既読はつかない。

真衣香はシートを起こし、エンジンをかける。ヒーターの温風が、冷えきった指先に触れた。アクセルをそっと踏む。
車が動き出す瞬間、真衣香は小さく呟いた。
「Love you」
今度は誰にも聞こえない声で。自分自身に向けて。そしてもう戻らない誰かに向けて。
駐車場を出て、国道の街灯の下をゆっくり走りながら、真衣香は思った。

いつかまた、「Love you」を軽く言える日は来るのだろうか。

いいや、来なくてもいいのかもしれない。

だけど今はまだ、この言葉は捨てることができない。

(完) 雨夢 歌桜

2/22/2026, 12:23:33 PM

「太陽のような」

午後2時。カーテンの隙間から差し込む光が、テーブルの上のコーヒーカップに細く、白い線を描いていた。

「ねぇ、流歌(るか)」彼は静かに言った。
「今日、太陽みたいに明るいね」

私はいつものように笑った。でもその瞬間、背筋の奥に小さく、かつ鋭利な氷の針が刺さったような気がした。

彼の名前は真斗(まさと)。付き合ってだいたい2年になる。優しく、几帳面。「太陽みたいだ」と、何度も言われた。
最初は照れくさくて嬉しかった言葉だったが、いつからか、少しづつ重くなっていった。昨日の夜もそうだった。
「流歌って、本当に太陽みたいだよね」
電気を消したくらい部屋で、彼は私の髪を指でうそぶきながら呟いた。
「眩しすぎて、近くにいると目が痛くなるくらい」
私は、「大袈裟だよ」と笑って誤魔化したけど、その声がいつもより低くて、少し掠れていたのを私は聞き逃さなかった。

そして今。彼はテーブルの向かいに座ったまま、じっと私を見ている。

「流歌、太陽ってさ、ずっと見つめてると失明するって知ってる?」

心臓が一瞬、大きく跳ねた。

「だから人は、太陽を直視しないんだよね」彼は微笑む。いつもの優しい笑顔。
「たまにチラって見て、すぐ目を逸らす。それが正しい距離なんだ。」
私はカップを手に持ったままで動けなくなっていた。
「でも俺、ずっと見てたんだ。」彼の声が一段低くなる。
「流歌の笑顔、泣き顔、誰かと電話してる時の声も、寝てる時の寝息も、全部。眩しすぎて、もう目がおかしくなったみたい」

その瞬間、テーブルの下で何か、金属が小さくカチリと鳴った。
私は反射的に立ち上がろうとした。でも足が動かない。いや、動かせない。視線を落とすと、私の右足首に、細いワイヤーみたいなものが巻きついているのが見えた。テーブルの脚にしっかり固定されている。

「いつから…?」声が震えた。
「3週間前からかな、流歌が俺以外の誰かと笑ってる写真を見た日から。」彼は穏やかに答えた。

頭の中の記憶が急速に駆け巡られる。
〜3週間前。職場の飲み会の集合写真。同期の男が私の肩に手を置いて、ふざけてピースしていたあの1枚。〜
「あれ、ただの…」
「知ってるよ。」彼はそう言って私の言葉を遮って続ける。
「知ってるけど、でも、見てしまったものは消せないんだ。」

真斗はゆっくりと立ち上がり、ポケットから何かを取り出した。小さな黒い円形のもの。レンズの部分が、鈍く光った。
「これ、太陽の光を集めるレンズなんだ。昔の実験で使ってたやつ。太陽光を一点に集めると、紙が一瞬で燃えるんだよ」と、彼は囁くように言った。
彼は私の顔のすぐ近くまでレンズを近づけてきた。窓から差し込む光が、レンズの中で歪んで、私の瞳に白く、小さな太陽を作り出した。
「流歌は太陽みたいって、ずっと言ってきたよね。」
彼の声がすぐ耳元で響く。
「だったら、最後まで太陽でいてよ」
レンズがさらに近づく。白い光がだんだん熱を帯びていく。
私は叫ぼうとした。でも喉が凍りついて声が出なかった。

その時、玄関のチャイムが鳴った。真斗の動きが一瞬止まる。

もう一度、ピンポーンと鳴る。
「…誰?」彼が小さく呟く。
「助けて!」私は全身の力を振り絞り、掠れた声で叫んだ。

一瞬の静寂。そして、ドンッ!という大きな音と共に、玄関のドアが蹴破られる音がした。
「警察だ!動くな!」
光がレンズから逸れた。真斗の手から滑り落ち、床に転がった。

私は泣きながら、ただ震えていた。

駆けつけた警察官のひとりが、私の足首のワイヤーを切ってくれた時、ようやく彼の言葉が耳に届いた。

「流歌…眩しすぎたんだ…」

床に落ちたレンズが、まだ小さな太陽の光を、静かに反射していた。

(完) 雨夢 歌桜

2/22/2026, 8:59:58 AM

「0からの」

朝7時。私のスマホのバッテリーは、0%になった瞬間だった。

画面が真っ暗になる。通知、音楽、アラーム、何もかもが途切れる。
静かすぎて、自分の呼吸音さえ、やけに大きく聞こえた。
「…はは…」と笑ってしまう。
だって今日こそ、「もう何もかも終わりにしよう」って、決めた日だったから。

バイト先には「体調不良」で連絡済み。
両親には「しばらく旅行する」と、嘘をついている。

部屋の家賃もあと3日で滞納。貯金は、袋に入れた500円玉7枚と、千円札一枚だけ。全部0に近づいていた。それなのに、バッテリーが0になった瞬間、妙に「まだ足りない」と思った。

コンビニの袋を握りしめ、とりあえず外に出た。2月にしては暖かい日だった。コートを着るのも面倒で、Tシャツにパーカーを羽織っただけ。駅前ロータリーをぼんやり歩いていると、ふと、小さな女の子が目の前を横切った。
5歳くらいだろうか。緑のリュックを背負い、片手に風船を持っている。
「可愛いな」と微笑ましく見ていると、風船の紐が手からするりと抜けて、ふわっと浮かび上がった。

「あっ…!」

女の子が小さな悲鳴を上げる。

俺は反射的に手を伸ばし、風船の紐を指先で掴む。意外と簡単に掴めた。

「はい、どうぞ」

女の子に渡すと、彼女は目をまん丸にして俺を見上げた。

「おにいちゃん…スマホないの?」俺は急に言われて固まる。
「だって、すごく悲しそうな顔だよ」と彼女はとても心配そうに見つめる。

「まぁ…電池きれちゃってさ」
「そっかぁ…」というと、女の子は風船の紐をぎゅっと握り直した。

「じゃぁ、これあげる」そう言って彼女が差し出したのは、リュックに着いていた小さなキーホルダー。プラスチック製のちょっと色あせている星型。
「これね、0って書いてあって、0からはじめられるんだって、ママが言ってた」
俺は手に取って、掌の上で転がしてみた。本当に、小さく「0」と刻印されていた。

「ありがと」
「うん!バイバイ!」
女の子はぴょんぴょん飛び跳ねながら走っていった。

俺は立ち尽くしたまま、その星型のキーホルダーを握り続けた。
ゼロって、別に悪い数字じゃないのかもしれない。ただのスタート地点だ。
電池が0%になったスマホも、充電すればまた光る。
お金が0円になっても、1円から数えなおせる。
命だって、まだ息をしてる限り、0じゃない。

俺はゆっくりと息を吐き、袋の中のお金をもう一度数えた。
4500円。うち、千円札は一枚。

これで何ができるだろうか。とりあえず、100円のコーヒーでも買おう。そしたら、残り900円からのスタートになる。

俺は小さく笑った。「0からの、か…」と。

ポケットの中で、星型のキーホルダーが、俺の言葉に応答するように「カチッ」とかすかに鳴った。

(完) 雨夢 歌桜