―バレンタイン―
今日の空気は、
どうしてこんなに、音を遠くするんだろう。
廊下の笑い声も、
机を引く音も、
全部、薄い膜の向こうから聞こえる。
私は、
手の中の小さな箱を、
制服のポケット越しに押さえていた。
溶けないように。
崩れないように。
それだけじゃなくて。
この気持ちが、
勝手に形を変えてしまわないように。
放課後。
教室には、
まだ何人か残っていて、
チョコの匂いが混ざった空気が、
少しだけ重たい。
「今日、大変だったよな」
前の席の子が笑う。
「友チョコ配るだけで腕死ぬ」
みんなが笑う。
私も、
一緒に笑う。
喉の奥に、
小さな棘みたいなものを残したまま。
君は、
いつも通りの顔で、
私の机の横に立つ。
「まだ帰んないの?」
その声は、
昨日と同じ温度で、
一週間前と同じ距離で、
ずっと変わらない。
それが、
少しだけ、怖い。
「……これ」
私は、
箱を差し出す。
できるだけ、
軽く。
できるだけ、
なんでもないみたいに。
君は、
一瞬だけ目を丸くして、
すぐに笑った。
「ありがとう!」
それから、
少しだけ照れたみたいに、
「俺、今日友チョコめっちゃもらった」
胸の奥で、
何かが、
静かに音を立てる。
「すごいね」
ちゃんと、
笑えたと思う。
君は、
箱を軽く持ち上げて、
「これも友チョコ?」
その言葉は、
本当に、
悪気のない声で。
だから、
余計に、
逃げ場がなかった。
私は、
一瞬だけ迷って、
「……うん」
と言った。
君は、
安心したみたいに笑って、
「ありがと。大事に食べる」
その「大事に」が、
どこまでの意味なのか、
聞かなくても分かってしまう。
帰り道。
ポケットの中は、
もう空なのに。
指先だけ、
まだ、
包み紙の感触を覚えている。
本当は。
一つだけ、
味を変えた。
一つだけ、
材料を変えた。
一つだけ、
意味を変えた。
でも。
それはきっと、
甘さの中に溶けて、
区別なんて、
つかない。
明日、
君はきっと、
普通に話しかけてくる。
何も変わらない顔で。
何も知らない声で。
それを想像すると、
少しだけ、
安心してしまう自分がいる。
伝わらなかったことより。
この距離が、
壊れなかったことのほうが、
少しだけ、
怖くなくて。
私は、
そのことを、
まだ、
後悔できないでいる。
題名:【チョコと溶ける】
2/15/2026, 12:15:08 AM